東日本大震災

            
高橋 朗さん(高40)


 東日本大震災で被災された皆様に心よりお見舞い申し上げます。一日も早い復興のお手伝いができればと、同窓会でも義援金の検討をしております。
そこで、石巻在住で自らも被災された宮城県
石巻北高校ソフトボール部顧問 高橋朗先生(高40)に震災時の状況、支援についてメールインタビューさせていただきました。

救助した警察官のコートを拾う高橋さん

☆大変な思いをされたと思いますが、ご協力本当にありがとうございます。
 九死に一生を得たと伺っていますが、、、


津波で直接 死に直面したわけではないので「九死に一生を得る」は大げさだったかも しれません…
でも、震災後の3日間は本当に飢えました。「このままではまずい…」と いう感覚はかなりありました。

☆地震の時は学校にいらしたのですか?

地震直後は、学校の事務室にいました。いままでに感じたことの強い揺れでした。しか し、揺れ以上に、その長さに驚きました。こんなに長い時間の揺れは経験したことがあ りませんでした。私の後ろのコピー機が私に向かって走ってきました。必死で押さえて いると今度は、金庫や本棚が倒れてきました。本当に大きな揺れでしたが、幸い生徒、 職員にケガはありませんでした。
(学校は石巻市内ですが北側に位置しており津波被害はありませんでした。しかし、自宅にいた生徒数名が津波によって亡くなりました。)

☆前途ある生徒さんの死は、より辛いですね。
 石巻の揺れは震度6弱ということでしたが、伊豆でもずいぶん長く揺れていました。

 津波発生までは?

当日は自宅学習日であったために、部活動の生徒以外は登校していませんでした。私は 残っていた生徒を校庭へ避難させました。このときラジオを聞いていると「大津波警報 」が発令されました。「10mの大津波」と放送していました。 2人の子どものことが脳裏によぎりました。  

私は家族の心配しながらもソフトボール部員を保護者に引き渡し、学校に避難してき た住民の対応にあたっていましたが、学校長から家族がある職員に対しての帰宅許可が 出たので2人の子どもを迎えに小学校へ向かいました。

正直、このときはまだ、「10mの大津波」イメージまったくできていませんでした 。
小学校へ向かう道路は全ての信号が消えており、大渋滞でした。
そこで、裏道の北上川 沿いの土手の道路を走ることにしました。すでに北上川はこの土手の真横まで増水して いて、道路も亀裂だらけでしたが、無事に小学校へたどり着きました。今思えば、この道路を通ったことはとても危険な行為だったと感じています。私の車以外は一台も走っ ていませんでした。

小学校で子どもたちと会うことができ、自宅マンションへ向かいました。途中でマンホ ールや路面の亀裂から海水が噴き出してきました。ただ、ある程度海から離れていたこともあり、このときは水道管が破裂したのだと思っていました。しかし、マンション周 辺はどんどん水かさが増していて、車では近づけず、車を近くのスーパーに駐車して、 なんとか子どもたちと自宅マンションへたどり着きました。

←ご自宅の台所(写真撮影 当時小6のご長男)

☆マンションは海からは2キロ以上離れているものの、北上川に2方向囲まれているところにあったのですね。
  (石巻周辺地図) 差し支えなければ、その後は?


私たちの家族が本当に苦しんだのは、この後からでした。当日夜はマンション の階段で深夜まで過ごしましたが、あまりの寒さに部屋へ戻ることにしました。  
真っ暗な部屋ではラジオから信じられないニュースが次々に聞こえてきました。「石巻市の日和大橋で車が孤立している」、「石巻市のヤマニシ造船所で造船中の船が従業 員とともに漂流している」「気仙沼で火事,、町中が炎に包まれている」「仙台若林区で 遺体200〜300体を発見」などです。どれもが断片的で不安が増すばかりです。また、外を見ると海側(南浜、門脇)の空が火災で赤く光っていました。

空腹、不安、恐怖で眠れぬ夜を過ごしました。
そして、翌朝に玄関を出ると、ほとんど 水が引いていませんでした。マンション周辺で一番深いところは、2m近く水没したままです。私は直感的に「まずい、飢える…」と思いました。この予感はあたってしまい、結局3月16日に水が引くまで、マンションの外から食料と水が供給されることはありませ んでした。   

マンションはオール電化のため電気調理器が使えず、当然、水も出ません。私たちの 家族はたちまち飢えだしました。食料もかなり不足しましたが、水の不足はさらに深刻 でした。初めの3日間水不足は本当に危機的でした。子どもたちもじっと我慢していて、ほとんど動きませんでした。

☆3日分の備蓄が必要と言われていますが、まさにその通りでしたね。 

4日目以降は他の部屋の方や大家さんの好意で、子どもたちの分の飲料を分けてもら いましたが本当にぎりぎりの生活が続きました。他の部屋も危機的な状況なのは変わら ず、小さな子ども達が空腹で泣いていました。  

また、近隣の住民で自宅に居住できなくなった方やマンション1階の方々がマンショ ンの階段で寝泊まりを続けていました。彼らの飲料水や食料の不足、トイレも深刻でし た。ある程度備蓄していた大家さんが、彼らへ飲料水や食料を配布してくれました。「 私も何かできることを」と思いましたが、子ども達の飲料水も不足する中では、残念な がらできることはかぎられていました。結局、できたのは部屋のトイレを解放すること くらいでした。  

3日目からやっと、上空をヘリコプターが飛ぶようになりました。マンションには生後数ヶ月の赤ちゃんがいたのですが、体力的に限界が近づいていました。住民数名で、 屋上からヘリコプターヘ必死で訴えました。私たちの必死さが伝わったのか,ヘリコプ ターが近づいてきてマンション屋上から救助されました。それを屋上で見ていた子ども たちとその家族の何組かが、自分たちも救助してもらえると考えリュックを背負って並 んでいました。私の小学校1年生の娘が「おとうさん、私たちもリュック持ってくる? 」と聞いてきたときには涙があふれ出てしまいました。ヘリコプターに乗れないのは明 らかでした。ヘリコプターは病人か乳幼児しか乗せないからです。リュックを背負って 並んでいた子どもたちは落胆して、泣きながら部屋へ帰っていきました。

そして、4日目になると自衛隊のボートがマンション前を通過しました。食料と水不足を必死で訴えましたが、急病の人やけが人だけを搬送するといって去っていきました。今思えば、それだけ被災地が広範囲で救助が間に合わなかったことがわかりますが、このときは本当 に落胆しました。

3月16日に水が引くと、マンションの住人は徐々に親戚などを頼って出て行きはじめま した。私たちは宮城県に身寄りがないのでマンションとどまりましたが、食料、水はな かなか思うように手に入りません。給水車は市役所職員でさえもどこに来るのかわから ず、口コミだけがたよりでした。噂を聞いて行ってみるとすでに給水が終了しているこ ともありました。避難所へ行くことも考えましたが、近隣の2カ所の避難所はそれぞれ 、1500人以上が避難しており、新たに入ることができません。また、避難所の食料不足 も深刻でした。自家用車も2台とも水没してしまったので完全に「自宅難民」でした。  

3月17日になってもあいかわらず停電・断水が続いていて、携帯も圏外のままです。 ラジオからの情報以外は全く入らず、逆に、殺人や強盗などのウワサ話は次々に入って きます。  
私は状況を自分の目で確認するため、自転車で街を走りました。眼前に広がる光景は 想像を絶するものでした。5分ほど走ると道路に大きな船が止まっています。2階に乗 用車が突き刺さっています。まったく信じられない光景でした。さらに海岸へ近づくと 街そのものがなくなっていました。また、治安も悪く、コンビニーやスーパーだけでな く、多くの店の入り口や窓ガラス,自動販売機が破壊され現金や商品が持ち去られてい ました。  

これらの状況を確認したことで、私たちの家族は県外の実家への避難を決断しました 。しかし、脱出も大変でした。
結局、3月24日まで宮城県を脱出することはできませ んでした。

私たちは仙台で1泊、新宿で1泊して静岡県まで帰る計画をたてましたが、まずは、仙 台へ行くのが大変でした。仙台行きのバス(片道40km)は一日に数便だけで乗れない 場合もあるということでした。さらに、仙台のホテルの多くが休業中です。営業してい るホテルも復興業者が入っていて予約ができそうもありません。  

自力での予約は不可能と考え、私の(韮高37回卒)、(韮高48回卒)に頼ん でなんとか仙台と新宿のホテルと新宿行きの高速バスを押さえてもらいました。仙台の ホテルは23日だけ予約ができました。この日を逃すと次のチャンスはしばらくありま せん。仙台に着くまでは本当に不安でしたが、なんとか無事にたどり着くことができま した。  

仙台のホテルでは電気がついていること、自動販売機が動いていることなど震災前ま では当たり前だったことに本当に感動しました。ホテルはお湯が出ないので残念ながら お風呂には入れませんでした。しかし、ホテル近くの美容室が被災者にシャンプーをし てくれていました。、家族みんなで頭髪を洗ってもらいました。この美容室もお湯は出 ないのですが、やかんでお湯を沸かしながら洗ってくれました。震災以来初めてのシャ ンプーは涙が出るほどの感動でした。また、ホテルでの食事も30分並んでやっと買っ た冷たいお弁当でしたが、子どもたちは久しぶりの普通の食事を喜んでいました。  

翌日の夕方、高速バスで新宿へ到着しました。ここまで来ると人々は普通に生活して いました。その姿にうらやましさを感じ、また自分達が被災者であることを痛感しまし た。 新宿のホテルでは震災後、初めてお風呂に入りました。このときの感動は一生忘れない と思います。普通の食事をしたのは震災後初めてです。地震から実に12日が経ってい ました。  

しかし、夜になると子ども達が体調を崩しました。東京まで逃げてきてやっと安心し たのでしょうか。 その後、静岡県の実家で数日を過ごし、群馬県へ移動して子ども達の転 校手続きをすませました。手荷物のみで逃げてきたので、子ども達の衣服や勉強道具も なかったのですが、小中学校,保護者の方々の好意で制服、学用品などを寄付していた だき、なんとか登校の準備ができました。

今回の震災では本当に多くの方々に助けていただきました。毎日、家族で感謝して生活 しています。現在、家族は群馬県で生活しています。私は、石巻のマンションに戻り一 人で生活しています。なお、マンションの水道復旧したのは4月27日、お湯が出るよ うになったのは5月2日でした。

☆本当に大変な状態の中、人名救助もされたとか?

震災2日目。自宅マンションから水没した街を眺めていると、畳に2匹の犬が乗ってきま した。よく見ると若い男女の警察官2名がマンション駐車場の給水タンクにしがみつい て畳を押さえています。私を含めたマンションの住民は警察官が救助に来たのかと思い 、喜んで手を振っていました。しかし、二人の様子がおかしいのです。顔は真っ青で寒 さで震えています。一人は声も出せません。もう一名が、私たちに救助を求めています 。1階の入り口は完全に水没していたので、2階から何とか2人を救助しました。今にも 低体温で倒れそうでした。一刻も早く暖めなければ命にかかわる状態でした。なんとか マンションの私の部屋に入れて着替えさせましたが、本当に危ないところでした。

この二人の警官は 無線で、派出所から本署へ戻るように指示をされたそうです。しかし、通り道の水深が 想像以上であり、引き返す体力もなくなり、立ち往生してしまったとのことでした。結 局、水が引くまでの数日間を私たちの部屋で過ごしました。人数が増えたことで、水、 食料不足への不安は増大しましたが、それ以上に部屋に若い警察官2名が滞在したこと は精神的な支えとなりました。特に子ども達は突然の来客と2匹の犬のおかげで本当に 心が安定しました。

韮高野球部の同期の方がソフトボールを送って下さったそうですね?

本当に「感謝!」です。韮高野球部の団結力を感じるとともに、「やっぱり韮高野球部 はいいな!」とあらためて感じた瞬間でした。  
学校の子ども達も被災しており、せめて学校にいる間くらいは夢中になって白球を追 って、つらい日常を忘れてほしいと思っていました。しかし、学校設備の復旧などに加え、生徒会費などの諸経費を納めることができない家庭が大幅に増えることが予測され るため、部費の大幅削減案が出されました。ソフトボールも野球型の競技のため他部に 比べて経費がかかりますので、本当に心配していました。そんな矢先の同級生からの申 し出でしたので、ありがたく頂戴して生徒達にすぐに渡しました。子ども達は本当にう れしそうで、その笑顔に逆に私が元気をもらいました。  

現在はソフトボール部の指導をしていますが、あらためて私の原点韮高野球部にあ ると感じました。  なお、今回の援助は野球部(高40回)の大橋くん(三島市梅屋眼鏡店主)が発起 人となり、とりまとめてくれたことを報告します。

☆余談ですが、野球部の同級生と先輩に宮城でお会いしていたそうですね。

 昨夏には全日本教員ソフトボール選手権大会が女川町で開催され、野球部(高40回 )の内田くんの所属チームが予選を勝ち抜き女川町へきてくれました。彼とは本当に久 しぶりの再会だったので本当に楽しいひとときでした。しかし、その半年後に今回の震 災が…。彼と話をしたグラウンド、ホテルも今は無残な姿になってしまいました。今で も3月11日の出来事は夢だったのではないかと思うことがあります。しかし、朝、玄 関を開けるとそこには津波の傷跡を残した町並みが眼前に広がっています。  

また、日本製紙石巻野球部木村監督(高32)には、震災直前の1月に来校していただきまし た。本校ソフトボール部の生徒にお話をいただき,ヤクルトスワローズの久古選手のサ インボールなどももらいました。さらに,地元新聞「石巻かほく」のコラムの中でも本 校ソフトボール部にエールをもらいました。本当に韮山高校野球部の結束力の強さを感 じるともに、深く感謝しています。

☆昨年の夏、木村監督にインタビューさせて頂いた際に、野球部の後輩が訪ねてきてくれたとメールを頂いていたので、いつか取材ができればとは思っていました。まさかこのような形になるとは思ってもいませんでしたが、、、
木村監督のチームは、大会遠征中で被災こそ免れたそうですが、工場の操業は休止。当初はボランティア活動をしながら、ようやく5月18日に練習を再開し、今年も都市対抗野球出場を目指して頑張られているそうですね。やはり32回の同級生からボールを頂いたそうです。

ところで、同窓会でも義援金の検討をしているようですが 、私たちは何をしたらいいですか?
 (被災された方にっては、どのような支援が嬉しいですか?)


これは、難しい質問だと思います。  
震災当初は、食料、飲料水、衣服、寝具等が必要でしたが多くの避難所はこれらが届 くようになってきました。ただ栄養、衛生、メンタル面では課題が山積していますが…

被害範囲が広大なため石巻市内でも場所や人によって必要なものが変わってきています 。 私自身が被災者ですが、皆それぞれ必要なものが異なるため一概に「石巻市にはこれが 必要です」などとはいえない状況です。 例えば、私の居住地域は床上浸水だけなので、5月に入り徒歩圏内のコンビニなどが再開し始め、食料、衣服などが購入できるようになり、浸水部分の家具の撤去やヘドロの 掃除もほぼ終わりました。
しかし、佐藤(山本)陽子さんのメールにもあるように、援助が足りていない小さな避難所や、未だにがれきや流出した車が散乱している地域もた くさんあることも事実です。          震災1ヶ月後 4月11日

やはり同窓会HPの(高28)の佐藤(山本)陽子さんのメールと報告書が状況をよく表し ていると思います。

教育現場も様々です。 例えば,私が勤務する石巻北高校では、宮城水産高校が本校グラウンドのプレハブ校舎 に登校するようになったので、登下校の交通安全や体育、部活動等に支障が出ています 。  
部活動においては体育館が避難所になっており使用できないこと、2校同時に部活動 を実施することで施設が不足しています。対応策として近隣の小学校や定時制高校など を借りて部活動を実施せざるを得ない状況です。  

石巻市はもともと車が主な交通手段だったのですが今回の震災で車を流出した家庭も 多く、部活動での生徒の送迎に支障が出ています。平日は顧問の車で練習会場へ送迎し ていますが、全員が車に乗り切れるわけではなく、また、私を含め顧問が車を流出して しまっているチームもあり、土日の練習試合の送迎に頭を痛めているチームが多いです。ですから、「普通免許で運転できる大きなワゴン車があると助かるなぁ」などと 各部の顧問で話をしています。

・石巻市の小中学校は未だに簡易給食です。

・体育館には避難者が生活しており、グラウンドに自衛隊の車輌がいる学校もあります 。

・被害のひどい小中学校の生徒が分散して他校に通学している状況です。

・冠水して通学の安全が確保できない学校があります。

・学校の隣ががれき置き場のため、異臭がひどく全校生徒にマスクを配布しているとこ ろもあります。

・宮城県水産高校は水産高校でありながら、津波のため校舎が使えず、石巻北高校のプ レハブ校舎に引っ越しが決まり、海から離れることを余儀なくされています。
                          
ということで学校であっても支援してほしい内容はそれぞれに異なってきます。

大変貴重な情報をありがとうございます。今回お話を伺って、あらためて人ごとではないと感じました。
義援金に関しても、もうすでに出されている方も多いかとは思いますが、
あらたにより意義のある形で協力できればと思います。
一日も早くご家族が一緒に暮らせるようになるといいですね。