韮山高校の歴史とその周辺 第16話

 韮山高校と下田高校は従兄弟関係?!

       
桜井祥行(高32)

依田佐二平像

 前回、韮山高校と三島北高校は兄妹校であるお話をしましたが、実はもう一つ下田高校とも深い関係があります。

 下田高校はつい最近までは下田北高校と呼ばれていましたが、下田南高校との再編整備の中で、現在の校名となりました。この高校も設立は古く、明治12年(1879)1月に私立豆陽学校の名称で開校しました。認可されたのは同年8月でしたが、一足先に下田蓮台寺の大区議事堂にて講義が行われていました。

 その時の講義は、北海道帯広の開拓をした依田勉三が日本外史を教え、勉三と共に十勝に渡った渡辺勝が英学を教えたことがはじまりです。

 賀茂地区中等教育学校開設しようとがんばったのが勉三の兄の依田佐二平や、大野恒哉木村恒太郎等でしたので、彼等が創立者ということになります。

 その後、明治14年(1881)3月に豆陽学校では師範科を設置します。小学校教育の為の教員養成を念頭に置いたためだと思います。その年8月に韮山高校の前身である県立韮山学校は、豆陽学校併合したため、蓮台寺教場韮山中学校支校となりました。

 これは、おそらく学校維持資金上のことかと思われます。当時伊豆国は君沢・田方郡と賀茂・那賀郡の四郡からなり、県立とはいえこの四郡町村連合会の出資によって両校は維持されていたからです。

 しかしながら、翌明治15年(1882)9月には韮山中学校支校から分離し、県立豆陽中学校となり、韮山中学校は町村立中学伊豆学校となりました。四郡町村連合会は伊豆学校の運営を迫られることになり、この資金繰りにも苦労したため、明治17年には今度は町村立中学伊豆学校を県立豆陽学校に併合し、名称として豆陽学校の名は残すものの、本校を韮山、蓮台寺を分教場という形がとられました。

下田高校
明治19年にいたっては県立豆陽中学校は沼津中学校に併合した事態も生じましたが、その後は両校が独立する形となっていきました。つまり明治10年代は韮山高校と下田高校は互いに兄弟となっていた時期があるわけです。その理由は田方郡と賀茂郡のそれぞれに中等教育を学べるようにという地元有志たちの熱い願いがあったからです。

 スルガ銀行創始者の岡野喜太郎両校にあるのは、まさにこの理由に他なりません。
      

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             11月26日(土)14:00〜15:30  桜井祥行
              @清水町地域交流センター研修室   
             参加費・200円 (事前申込み不要です)


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