韮山高校の歴史とその周辺 第12話 桜井祥行(高32)
岡野喜太郎の碑
 韮山高校の運動場の北東に位置し、山上コートに上がる階段下に岡野喜太郎の碑があることをご存知でしょうか。正式には「岡野喜太郎翁旌表」碑と呼ばれるものですが、岡野喜太郎の名はスルガ銀行の創立者とよく知られており、彼の碑がなぜここにあるのか知らなかった人も多いと思います。

 実は岡野喜太郎は明治18(1885)年9月に、下田の蓮台寺にある県立豆陽学校(現下田高校)師範科に入学しました。当時師範科に入ることは徴兵を逃れることができることから、沼津出身の岡野はわざわざ下田まで行きました。

 この当時韮山高校の前身の中学伊豆学校は、明治15(1882)年にそれまでの県立から町村立になり、徴兵免役の効力が認められなくなっていました。そのため明治17(1884)年に県立豆陽学校(本校韮山、分校蓮台寺)に併合される形となりました。

 ところが岡野が入学した翌年、県立豆陽中学校は一時沼津中学校に併合され、沼津中学校の分校となってしまいました。

 一方中学伊豆学校はいったんは豆陽学校になりましたが、改めて町村立伊豆学校の名称で県会で承認され、徴兵免役が可能となり、今度は韮山の地で学ぶことになりました。彼にとって現在のテニスコートのある山上校舎が学び舎となりました。

 県立や町村立になったり、この時期の中学校はいつも存亡の危機にあり、両校で学んだ岡野の存在は貴重です。


 碑文には次のように書いてあります。
若イ時ヨク勉強シ、二十一歳ノ時、豆陽学校ニ学ンダ。実ニ本校ノ前身デアル。真面目ニヨク勉強シタノデ、同級生ニ抜キン出タ。

 この時の校長は江川英武ですから、山上校舎でその顔を仰いだかもしれません。
 成績もよかったようですが、卒業せずに退学しております。この時岡野は家の戸長として妻帯もしていましたので、家計のことも案じてのことでしょう。

 退学後に貯蓄組合を創立し、現在のスルガ銀行の礎を築いていきます。

 岡野は昭和40(1965)年に101歳で天寿を全うしますが、石碑はそれに因んで孫の岡野喜一郎が建てました。同じ石碑がやはり学んだ下田高校の一角にあります。校舎や運動場隅の何気ない所にも歴史は埋もれています。


                
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