韮山高校の歴史とその周辺  第15話 

   韮山高校と三島北高校は兄妹?!

       桜井祥行(高32)
箕田申之校長

 今でこそ、韮山高校生徒の男女比は半々ですが、ひと昔前は女子生徒の数は一学年の1クラス分くらいの人数しかおりませんでした。そのため男子生徒の視線は、当時女子高であった三島北高校の生徒に向いたものでした。

 ところが、この両校は実は大変近い関係にあったことを知っている方が少ないので、あえて紹介したいと思います。

 明治321899)年の高等女学校を受けて、田方郡下では、三島高等女学校(現三島北高校)の設立気運が高まりました。これは明治311898)年に旧制韮山中学校が県立となったため、田方郡に財政上のゆとりが生まれていた背景もありました。

 校地は現在のゆうゆうホール(三島市文化会館)の近辺が選ばれ、当時は小松宮別邸を借用する形で校舎が建築されました。その校舎、実は旧制韮山中学校以前に使用していた伊豆学校時代の校舎を移築したものでした。

 山上コートに建築した伊豆学校校舎でしたが、生徒数の増加により、現在の地に新たに校舎を建てたため、建築して10年余りの新しい素材でしたので、これをそのまま移築して三島高等女学校校舎としたのでした。現在も当時2階バルコニーに掲げられたエンジェル像が同校で保管されておりますが、これも伊豆学校時代からの名残りとなります。

こうして明治34(1901)年に開校しますが、校長も当時の旧制韮山中学校校長であった箕田申之が兼務で三島高等女学校の校長となりました。つまりスタートの段階から両校は兄妹であったことがおわかりかと思います。

三島北高校
箕田校長は地元中郷の出身で、東大卒業後東京専門学校(現早稲田大学)で講師をしていたところを招聘されて校長となりましたが、スポーツ好きで、野球やテニスを推進したことでも有名です。韮山高校と三島北高校のテニス部(軟式)は彼の影響下で創部しておりますので、両部の歴史は同じ歳月を刻んできたことになります。

箕田校長は翌年逝去されますが、近代的教育を両校にもたらし、その後の両校の発展の礎を築いたことを知ってほしいと思います。 

        

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