韮山高校の歴史とその周辺
                       第11話
 

     難関校「伊豆学校」

       桜井祥行(高32)



 一昨年の2009年しずおか国民文化祭開催以来、不定期に連載してきました「韮山高校の歴史とその周辺」ですが、知らぬ間に江川家の歴史に移行していました。
 
 ここで改めて韮山高校の140年あまりの歴史に目を向けたいと思いますが、やはり異彩を放つのは伊豆学校の存在ではないかと思います。既に第3回の「江川英武と伊豆学校」でお伝えしましたが、この学校のハイレベルぶりは半端ではありません。
 
 江川英武先生が1886(明治19)年伊豆学校校長に就任した時は33歳の時。岩倉使節団随行留学生として米国留学を果たし、内務・大蔵官僚としての前途を捨てての転身でした。それは担庵公以来の江川家の尚学の精神と家訓「敬慎第一実用専務」の発露としての決断でした。
 
 こうして江川英武先生が「伊豆学校」校長に就任し「英学」を中心とする高度な、異彩を放つ教育が開始されました。
 
 週26時間中14時間以上が当てられた「英学」の内容は、英文読解・読法・書取(10〜13時間)の他、歴史(4〜6時間)はパーレイ・スヰントンの万国史(世界史)、スエルの希臘(ギリシア)史・カッケンボスの米国史、ヒュームの英国史が組まれ、その他フォストルの生理学・モーレーの地理学・フオーセットの経済学・セボンの論理学・ペインの心理学などの講義もありました。
 
 「数学」は週5時間以上で、1・2年が算術、3年が代数幾何、4年は三角術。「漢学」(3時間以上)は近思録、2年は文章規範講義、3年は孟子講義・八家文、4年は荘氏講義・八家文でした。
 
 教授・助教授12人が「東京ヨリ招聘」され、教科書は東京丸善書店より直接外国から購入した原書が使われました。「アメリカ仕込みの英語を江川校長が教えるとあって、伊豆学校の人気は大変なもので、生徒は四方から集まり(明治21年生徒数180人)…盛況でした」と卒業生は記しています。
 
 その卒業生たちは当然ながら地元の村長や議員、企業主として地元を支えていきました。
 
 これだけの難関校は近年の進学校と呼ばれる段階以上のものであり、在学生はもちろんのこと卒業生も、当時の伊豆学校レベルについていくには大変なものであったと想像されます。

                
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