韮山高校の歴史とその周辺 
                
第3話
 江川英武と伊豆学校

     桜井祥行(高32)

      坦庵公五男 英武氏
 
2009年しずおか国民文化祭も終わりました。韮山高校の展示の中では、坦庵公はもちろんですが、江川英武の存在に興味を示された方が多かったように思えます。
 今風でいえば、イケメンの風貌の英武の写真は、おそらく洋行帰りの頃のものと思われます。そんな英武.が、大蔵省出仕時代に薩長の藩閥支配の蔓延る中央政界に見切りをつけて郷里伊豆に戻るのは1886(明治19)年のこと。
かつては韮山県知県事として旧韮山代官支配地の長であったがゆえ、時の流れは無情だったと思います。ましてや公私にわたり補佐してくれた柏木忠俊も泉下にあり、孤独な思いで韮山の地に帰ったのではなかったでしょうか。

 そんな彼の思いが、町村立伊豆学校及び私立伊豆学校にかける情熱となってあらわれたものと思われます。校長としてではなく、本場仕込みの英語を教える教師として生徒たちに接していったのでしょう。

 当時のテキストである英書は現在も韮山高校図書室に保管されていますが、今の中学生から高校生に相当する年齢の子どもたちが、授業の大半を英語教育として受けていたことに驚嘆します。
また新学期は秋からというのもアメリカに合わせたもので、その先進教育を受けるために全国から韮山の地に赴き、現在のソフトテニスコートのある龍城山の三の丸の地に建てられた校舎は増築を重ねたといいます。
 さらには講道館柔道出身の富田常次郎を招聘し、英語柔道教育にも力を入れます。

 しかしながらこうした英武の努力にもかかわらず、数年後には生徒数は激減します。高額な教員への給料や学校運営の出資金の不足が、定員減にならざるをえず、英武を招聘した地元有力者たちの協力が思ったほど英武の意に沿うものではなかったようです。またかつての家臣であった岡田直臣は君澤田方郡長となっていましたが、伊豆学校への協力も薄く、英武の情熱も冷めていったようです。

 柏木忠俊の養嗣子として山梨県の南部町からきた柏木近藤敏三郎は学校幹事(事務長)として経営を委ねられ、何とか伊豆学校維持に務めました。惣代人の一人でもあった田中鳥雄代議士の子息田中萃一郎が慶応義塾卒業後に校長代理として一時的に代役を務めますが、最終的には組合管理者として堀江栄太郎等がその収拾に務め、その後の県立韮山中学校設立への橋渡しをしていきました。

 英武自身も様々な相談を受け、満足に読書すらできない多忙な中、東京に居を移すこととし、以後四十年以上悠々自適な生活に入りました。あたかも徳川慶喜の晩年に近いような生活をしたように思われます。

 しかし英武の校長時代は韮山高校の歴史の中で一際異彩を放ち、また当時の生徒たちもその後政界や財界で活躍していったことをみると、かつての韮山塾を彷彿させるものがあり、今日の韮山高校の礎になったように思われます。

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