オトナの食育 
所感編 第66回(通巻100回)2014/8/10号掲載 千葉悦子(高28)

100号を振り返り、今後の展望も
         


 200510月開始の「オトナの食育」、とうとう100号となりました。ひとえに、根気強くお付き合いくださいました編集委員や関係者(原稿によっては、専門家にご確認やご了承を頂きました)の校訓「忍」のおかげです。
 始めるときのおよその様子は、1号のご挨拶に書きました通りですが、もう少し詳しく説明します。

オトナの食育を始めた直接のきっかけ

 メルマガ委員さんに声を掛けて頂きました。当時「食育」という言葉が新鮮でした。また、韮高の先輩にあたる夫にも背中を押されました。

書き始める当時、私自身が考えたこと

 2005年当時、サプリメントやトクホやその他の健康食品等の、売るための情報ばかりが目につき、足が地についた食の情報が少ないと感じていました。
 食品安全委員会が2003年に出来てはいましたが、まだ一般にその存在が知れ渡らず、発信される情報が難し過ぎるきらいがありました。
 高校での家庭科の男女共修は、今年度36歳くらいになる方々からですから、当時の大人の男性ほとんどが小学校までしか家庭科を習っておらず、食の基本を学校教育であまり受けていませんでした。女性の場合は、妊娠・出産・育児の時期に、保健所等で栄養指導を受けるチャンスがあり得ますが、男性にはそういうのも、めったにありませんでした。
 おこがましいけれど、ないなら、自分で書こうと思いました。同窓会という、営利団体ではない自主的な活動の場なので、どの企業や団体にも縛られず、中立の立場で書けるし、読み手にもそういう立場という意味で信頼して頂けるだろうと期待しました。

 

ボランティアで書き続けるには、わけがあるのでは?

 韮高に大きな恩を感じています。高3で、私は日本育英会の予約奨学生になれました。私の知る限り、学年で3名ほどだったような記憶です。幼稚園から高校までほとんど毎年級友であったM君に「君が奨学金を取るから、僕が取れないじゃないか」と言われて、返答に詰まりました。「このご恩は忘れません」と心の中で思ったものです。実力テストの3教科や5教科で、一ケタになったことのない私が予約奨学生にして頂けたのは、成績の良い方々が辞退してくださったからです。その方々には、特に感謝しています。
 食物学科を選んだのは、韮高の非常勤講師として教えてくださった家庭科の故・石和先生の授業への憧れでしたから、将来のおよその方向を決められたのも韮高のおかげです。
 その当時は、日本の主婦連のデモの様子がテレビニュースに取り上げられることが多く、食の安全関連のニュースも目に付きましたので、食について本当のことを知りたい、食物学科に行ったら分かるかも・・・という期待がありました。
 高3の化学Ⅱ(文系用)の最初に、故・光林先生が「君達は何のために化学を学ぶのか?主婦連のような活動をするなら、僕は教えたくない。」と険しい表情でお話しなさいました。先生はめったにニコニコせず、気軽に話せるようには思えなかったので、それについて、とうとう質問出来ませんでしたが、何十年間も私の心の奥にその言葉が残っていました。最近、光林先生の言葉の意味がよく分かる気がいたします。
 また、教育実習では、家庭科の専任が韮高にいないため、近隣の学校を紹介してくださいました。さらに、就職先が御殿場にある高校で、夜は街に米兵がいて、とても怖くて出歩けない状況で、「このままでは出会いがない」と困っていたところ、高1の担任の奥様が世話をしてくだって、夫と出会うことが出来ました。しかも、夫は、家庭科の石和先生と、少し血縁があります。
 私にとって韮高は、恩が盛りだくさんなので、出来ることはしたいと思います。

 

書くことが好きになったきっかけ

 読書感想文は苦手でした。何でも書けるわけではないです。自分から書きたくなったことなら、書けるという感じです。
 小学校56年生の時の担任が学級新聞を奨励してくだったことが、書くことを好きになったきっかけの様に思います。当時はガリ版刷りで、先生が11枚、40数名分、手で刷ってくださいました。放課後、子どもたちのたわいない話にじっと耳を傾け、相槌も打ちながら。
 学級新聞といっても、子どもたちが思い思いのグループに分かれ、好きな新聞名を付けて、書きたいことをわら半紙大に書いていました。子どもですから、漫画・イラストの上手なのが人気でしたが、私にはそういう才能がなく、もっぱら文章を書いた記憶です。その上、ユーモアのあることや笑い話を考えるのも不得意で、自嘲気味に「むっつり新聞」という名前にしました。
 後から考えると、良い時代でした。どの子のどの内容も、冷たく批判したり、馬鹿にしたりする人は、誰もいなかったように思います。先生も手間を惜しまず、懐が深かったような記憶です。「公務員は公僕ですから。」などと話す、児童だった私が申し訳なく思うほど謙虚で、それこそ奉仕の精神を地で行っていらしたと思います。
 

ボランティア精神はどこから来るか?

 広い意味の家族の影響があると思います。私の父方祖父は、三島市が出来た時に合併したある村の村長で、毎朝、村の田畑に問題がないか見回りながら散歩したという話などを、実母から聞きました。箱根山の火山灰を含む土地を上手に利用して、じゃがいもや野菜の栽培を奨励したとか。なお、その祖父は旧制韮中卒です。
 私が生まれる以前に亡くなった祖父で、私は話を聞くだけですが、地域のために尽力したという意味で、尊敬しています。故郷に残れなかった私は、同じ形では貢献できませんが、ネットの時代に文章や情報という形なら、少しは力になれるかな?と思います。
 母方祖父は、東京の浄土真宗の寺の次男で、長男が幼い頃体が弱く、寺を継げるように教育されたという人だそうです。私は仏教のことも詳しくないですが、ボランティア精神に通じるものがあると思います。
 後は、小3位から高2まで、ガールスカウト活動に参加していたこともあります。奉仕活動やキャンプなどを含む様々な活動をしました。リーダーたちはまさに無償の活動だったと思います。自分の衣食住が十分満たされている立場なら、無料奉仕で社会のために何かを行うことは大事なこと、と子どもの頃から捉えています。
 

話の種は尽きないか?

 一番親しい従姉に数年前「そんなに何回も書いていて、よく話題が尽きないですね。」と言われました。ネタが尽きるほど、世の中から食についての問題が消えてしまえば、言うことなしなのですが、そういう状況にはなかなかなりません。食中毒の問題も依然としてあり、新製品・新型ウイルスなどやTPPのような社会的な新たな枠組みも出て来ます。個人に限っても、食についての問題はむしろ深刻になっている場合があります。
 「バランスの良い食生活」「衛生的で安全な食生活」「規則正しい時刻に食べる、楽しい食卓」という結論は同じなのですが、その時代に合った、具体的なこととなると、バリエーションが豊富なので、尽きないようです。
 

今後のこと

 文章を書くとなると、今の時代、パソコンに向かうことになります。これが長くなると、体にはあまり良くないです。その分運動不足になりますしね。
 今後は、あまり無理せずに、毎月ではなく隔月程度で書いたり、食について何か問題が起きた時、自分で文章を書くのはしんどい場合「これをご参考に」といった感じでネットや本で読めるものを知らせたりしたいと存じます。
 松永和紀氏の「食卓の安全学」が出版されたのが20056月、高橋久仁子氏の「フードファディズム」が2007年、小島正美氏の<誤解だらけの「危ない話 食品添加物・遺伝子組み換え・BSEから電磁波まで>が2008年、畝山智香子氏の<ほんとうの「食の安全」を考える ゼロリスクという幻想」が2009田島眞氏の「食品・栄養にまつわるホントとウソのQ&A」が2009年、関澤純氏の<これ、食べたらからだにいいの?「安全」と「安心」のギャップをうめる>が2010年という様に、従来の「危険と言っておけば良い」という風な本とは全く違うタイプの本がこの9年間に次々出版され、ネットにもそれなりのサイトが出来、当初ほど私が書く必要はなくなっていると思います。とはいえ、先ほど連ねたお名前を半分以上知っている方は、食以外のご専門の方の場合、少ないでしょうから、知らせるという任務は残っていると思います。
 昔なら、定年後の年齢になりましたので、そういった程度で続けさせて頂けると助かります。

 

                                 オトナの食育全メニュー