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この創立のそもそもの由来は、明治5年(1872)に学制が布かれたため、時の足柄県の柏木忠俊県令は、明治6年に小学校教員養成のための「仮研究所」(いわゆる教員養成所)を本庁の小田原と韮山支庁(江川邸)に開設したのでした。 江川邸は幕末時の韮山塾(江川塾)の場でもありましたが、明治に入っての仮研究所の授業は当初は近くの本立寺(韮山金谷)で行われたようです。 翌年11月には韮山城三の丸(現在の山上テニスコート)に校舎が建てられ、「韮山講習所対岳学校」としてリニューアルしたのでした。こうして伊豆学校までの明治期前半は三の丸が学び舎だったのです。 しかし最近、『明治初期静岡県史料』(明治初期に静岡県が編さんした『静岡県治紀事本末』の復刻本)をよく見てみると、「文武学校」という坦庵公の韮山塾の流れを汲む学校が存在していたことがわかりました。既にこの研究は影山昇先生がまとめられていたのでしたが、うっかり失念しておりました。 文武学校は、「戊辰(明治元年)ノ際暫ラク休学ニ至ルト雖ナホ永続ノ方法ヲタテ民部省エ開申シテ之ヲ維持スルニ至…、明治五壬申ノ年八月中学制ヲ頒タレシ己前本州中学校ノ設置アルモノ無シ特リ江川英武旧政府ヘ建言スル所アリテ創立セシ文武学校ナルモノアル耳」(『明治初期静岡県史料』)とあり、幕末から明治にかけて存在していたのでした。こうした学校は当時郷校とも言われましたが、そうなると韮山高校の歴史は170周年ということになります。 韮山高校の創立者は柏木忠俊で、学祖は坦庵公でしたが、文武学校の存在を考えると創立者は坦庵公ということになりそうです。このことはもう少し研究を進めてみたいと思います。 *4月号掲載『韮山高校開校記念日』 もお読みください |
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江川邸(韮山韮山) 本立寺(韮山金谷) 韮山高校の歴史とその周辺 目次 |