韮山高校の歴史とその周辺 
第25話


韮山高校開校記念日
      
桜井祥行(高32)


堀江栄太郎組合議長

 

 韮山高校の開校記念日はいつになるのでしょうか。明治6(1873)年に開学した時なのか、伊豆学校成立の時なのか、旧制韮山中学校開学の時なのか、新制韮山高校開学の時なのか色々諸説があるようです。たまたま明治時代に旧制韮山中学校が組合(町村)立から県立に移管する頃の様子を調べる機会がありました。そうしたところ、開校日が少しずついつなのかわかってきました。

 1894(明治27)に県会の決定を受けて、翌年4月にこれまで続いていた私立伊豆学校は廃校となります。私立伊豆学校といえば坦庵公の子息江川英武が校長として経営した学校で有名でした。この私立伊豆学校に代って君沢田方郡1町18ヶ村組合立静岡県尋常中学校韮山分校が開校されることになります。

 この組合立の学校議長として地元韮山村長であった堀江栄太郎が就任し、校長に小永井解太郎が新たに就任するのです。

 堀江栄太郎は何者かと詮索するのも大切なことです。堀江家は原木の地主階級で、現在の国道136号線沿い(ローソンが隣りかな)にある歯医者さんのご先祖の家にあたります。そう、立派な門構えの家があったかと思います。この当時、日清戦争が始まった頃ではありますが、原木の地主さんである堀江氏は韮山中学校をどうするか、どのように学校を維持していくかで東奔西走したのです。この堀江氏の評価については、翌年1895(明治28)の「韮山中学校沿革史」に、次のような記述があります。

  …校運甚タ振ハス殆ント閉校スルノ止ムヲ得サルニ会セリ、此時ニ当リ韮山村長堀江栄太郎ノ非常ナル義侠的尽力ニ依リ此校再ヒ永続スルヲ得テ、遂ニ湲来ノ盛大ヲ見ルニ至レリ、而シテ氏ハ尚ホ数年間本校管理者トシテ財政ノ任ニ当レリ

 つまり堀江氏の存在が伊豆学校存亡の危機を救ったという評価です。この年の4月15の開校が、その後の創立記念日として語り継がれるようになっていったのです。

 生徒数はこの年10月段階で157人を数え、伊豆学校当初以来の生徒数を確保することができます。学校組合はこのことにより中等教育の必要性を確信し、改めて分校ではなく、県立の単独中学校となるべく運動は続いたのです。堀江氏は学務委員(今日の教育委員?)として積極的に動き、1897(明治30)年の11月県会において、晴れて県立移管することに決定したのです。

 小生が高校時代の4月15日の週は確か遠足が組まれており、韮山町内の史跡巡りをした記憶があります。今日はこの日の近いところで遠足が実施され、本立寺で坦庵公の墓参りが行われているとのことです。

 今年で韮山高校も開校以来140になります。歴史が古いだけに過去の先覚者たちの存在が忘れがちになろうかと思い、あえて紹介させていただきました。


 
                   韮山高校の歴史とその周辺 目次