◆中島工場で作った動力銃座が復元され、67年ぶりに再会

  河口湖近くの飛行館で一式陸上攻撃機と動力銃座が世界で初めて復元されることになり、図面が少なくで困っているということを知り、組立係だった僕は全体像に記憶があり、現在は画家ですからスケッチを描くことで協力を申し出ました。
 ほかの友人にも思い出す限りの協力を仰ぎ、
2012年8月に80%復元されている銃座の見学に招待されて67年ぶりに再会を果たしました
 この銃座を構成する一つ一つの部品は韮中生が栄養失調の体で汗と油にまみれて作られたもので、銃座はこれらの凝縮された作品といえるものです。当時の辛かったいろいろなことが頭の中をよぎりました。
 さわやかな富士高原の一角にある飛行館で、67年前の青春時代を思い出すと同時に、亡くした半数の友を偲び、苦しみを共にした残る友人との絆が強い所以を改めて知る1日になりました。
 水口さんが同期会参加者に配るために作った資料を見て、驚いたのなんの。同期会って、集まって飲んで昔の話をする会じゃないの!? って。旧制中学卒業生と聞いて失礼だけど「オジイチャン」を想像してた自分がハズカシイ。
  旧制中学って何?? 全然わかんないし。ってわけで旧制韮中のことを語ってほしいとお願いしてみました。(ドラえもん)



同級生が2度の卒業期をもった
                  戦争中の韮中生 
                           水口 満(旧中50

   
 僕たちは太平洋戦争が始まった翌年5年制の韮山中学校に入学しました。戦時一色の教育指導が行われ、校庭の隅には兵器庫が設置され、軍事教練用の歩兵銃何百本も置かれていのです。それでも1年生のうちは敵国語といわれた英語も勉強ができました。
 このあとから僕たちの苦難が始まりました。2年生になると戦争が激しくなり、30歳くらいまでの男性は軍隊に引っ張り出されましました。残された乳飲み子を抱えた農家の奥さんたちのお手伝いに、韮中生は5,6人ずつの組に分かれて何の経験がなくても畑仕事をお手伝いして、多少は役に立ったと思ってます。


◆中島飛行機三島工場へ学徒動員
 やがて3年生になると、夏休みもそこそこに8月から今度は「学徒動員令」ということで、軍需工場で戦争に必要な兵器を作ることになったのです。1年先輩も1年後輩もそれぞれ別の工場に出掛けていきましたので、いつも身近にあった龍城山、先輩後輩との縁も切れることになりました。

 僕たち3年生は三島の中島飛行機製作所(現遺伝学研究所)勤務でした。この工場は一式陸上攻撃機の上部に搭載する20ミリ機銃の電動銃座を作っていました。
 斜面下から上に事務棟、第一工場、第二工場、第三工場で、その上は食料増産のための芋畑でした。第一工場と第二工場は銃座の各部品をそれぞれ作る工場です。
 僕は第三工場の総組み立て係の中隊で、総ての部品が集まってくるところで、それを組立てて動力銃座を完成させる最後の仕事場ということになります。
 熟練の職工長の中隊長をはじめ、職工さんたちと一緒の職場ですが、機械いじりが好きだった僕にとっては面白い職場でした。
 下の工場では友人たちが油だらけで旋盤や、ボール盤、スライス盤などを操作していましたが、みだりに友人に話かけることは海軍の命令で禁止です。
 戦争が最悪になるまでは銃座は月産15台ほどが完成したように記憶しています。完成したあとは射撃場で20ミリの機銃を乗せて試射をしてOKになれば出荷ということになりますが、どこに運ばれてどこで一式陸上攻撃機に搭載されるのか、聞いても海軍将校が答えるわけもありません。
 昭和20年、このころになると東京空襲で家を焼かれたり、危険を避けての疎開生転校生として多く入ってきて一緒に作業に従事するようになりました。
 昭和204月になると予科練海兵応募資格が得られたので、数名が休学の形で別れていきました。多分、工場仕事などやっているのなら飛行兵になって潔く戦おうという考えだったろうと思います。僕たちもあと2,3年もたてば軍人になるしかない、とみんな心の中では考えていたのですから。
 一般家庭でも食料や衣料、履きものなどはますます不足になり、着の身着のままで替えもなくなり、僕たちは栄養失調の状態だったと思います。
 硫黄島がとられ沖縄までアメリカ軍が上陸するようになったころから、部品が組み立ての第三工場に来なくなって暇になりました。工場の芋畑から外に脱走すると東海道松並木に出ますので、美しい富士を眺めて軍歌を歌ったり、だれかがハーモニカを吹いたり、すきっ腹でしたが久しぶりの笑顔を見せ合ったものです。
 昭和20815日の昼に、事務棟前の広場で天皇のラジオ放送を聞き、長かった戦争は終わりました。同級生たちは言葉もなくそれぞれの持ち場に帰り指示を待つつもりでした。
 僕が職場に帰って驚いたのは、大事な工具や、連絡用の自転車までが職工たちによってどんどん持ち出されていくのです。いままで国の為に力を合わせていた仲間が突然泥棒に変身したのです。ただ唖然とするばかりで、このときほど人間不信を感じたことはありません。しかし韮中生には一人もそんな不心得者はおりませんでしたので、さすが伝統の韮中生だと同僚を誇りに思ったものです。


◆敗戦の後遺症ともいえる不幸が韮中生にもあった
 戦争から開放された僕たちは、最高学年の4年生として1日も忘れたことのない学校に帰ることができたのです。龍城山が「ご苦労だったね」といって迎えてくれているようでしたし、埃だらけの机でも入学した時のような感動を覚えました。予科練、海兵に行った友人も次々に帰ってきて、飛行兵志願なのに短期間だったせいか飛行機を見たことがなかったと大笑いしていました。
 ところが、気がつくと学校のなかで見かけなくなった者が何人もいたのです。戦争が終わったのだから全員が帰って来るはずです。不思議に思いながらも敗戦の混乱のなかで、新しい進学の勉強に打ち込まなくてはならず、いつとはなしに、いなくなった友人のことは忘れてしまったのです。
 戦時特例で4年卒業になったのが、また新しい学令で5年制に戻ったり学校も混乱しました。結局、4年卒業も認めるということになり、同級生が2度の卒業期を持つことになったのです。
 10年ほど前に「戦闘帽の青春」という回想集を出版しました。旧友が重いペンを持って中島時代の記憶を綴ってくれました。中には戦争を思い出したくないから書きたくない、という友人もいました。僕は編集者の一人として半世紀以上たってから初めて知ることが多くて驚きました。
 落ち着いた年齢になって、かって突然いなくなった友達のことが話題になるようになり、手探りに聞いて回ったところ驚くことが分かりました。
 戦時中、三島にあった連隊には数千人の兵隊がいたそうですが、幹部将校などの息子さんも父と共に三島に在住したので、韮山中学校に転校していたようです。敗戦と同時に戦争犯罪人となることを恐れて、息子に「さよなら」も言わせることなく、夜逃げ同然にいずれかに消えてしまったということが想像されました。
 当然、卒業名簿にも名前はありませんが、「○○君というのがいたはず」という何人かの名前が噂に上っていたのです。
 一方、韮中生は栄養失調に陥ってましたので、結核を悪くした者がかなりいて、療養に入っていたために復学のタイミングを失った者もいました。上級生が療養の後に僕たちの学年で一緒になった者もかなりの人数だったと思います。
 疎開生で慌ただしく帰った者、4年で卒業した者、帰る家をなくして転々とした者、やむなく5年生まで残った者、伊豆に永住することになった者、と様々です。
 今年になり、67年ぶりに所在がわかって久しぶりに交友を温める同級生もいます。
 こうした戦争の傷跡をいまだに背負っている同級生を忘れることができません。


◆敗戦近くの工場生活に咲いた淡い恋        

 昭和19年、旧制韮中3年生15歳の夏から昭和20年の敗戦の日まで、学徒動員として日米戦争のために中島飛行機三島工場の兵器生産に駆り出されました。
 希望のない暗い日々を送っていたのは韮中生だけではなく、三商(現南高)三島高女(現北高)それに女子挺身隊という、僕たちより2,3歳上の女性たちでした。
 規律のなかで仕事場は男女別が多かったし、男子と女子の接触も会話もあまりなかった時代だったのです。

 戦後大分たってから親友のK君から「当時、僕は実は三島高女のYさんという人から手紙を渡されたんだ」ということを聞かされて、あんな時代にまさかと僕は驚きました。そのうちに家にまで手紙が舞い込むようになった、というのです。
 K君は純朴な少年でしたから、母親にどうしたらいいかと相談をしたところ、母親は「戦争で大勢の兵隊さんが戦死したりしているこんなときに、浮ついていてはいけない、お断りしてきなさい」といわれたのです。
 仕方なくK君は母親にいわれたことを手紙に書き、Yさんとはそれで終わったというのです。16歳のはかない青春のひとこまがあったんだと述懐するのでした。

 ところが後日談を聞いて僕はまた驚きました。K君が大学を卒業して、ある企業に就職をしたとき同じ職場にそのYさんがいたというのです。不思議な出会いに二人は驚いたでしょうが、時は移り過去を語り合うことはなかったのです。
 この出来事は個人の心の奥底に閉じられたことですから、僕は長い間だれにも話をすることはなかったのですが、10年ほど前に僕たちが出版した「戦闘帽の青春」のK君の回想記のなかで自身が少しだけ触れていました。二人の心情を思いやると同時に戦争の罪はここにも及んでいたということを改めて知ったのです。
 K君の回想記では「幼くはかない青春の蹉跌といえよう…」と締めています。