うまれて初めて「絶句」を経験
    〜被災地での活動報告〜
 

高木 謙 (高48)

同窓会総会にはなくてはならない存在となった「龍城応援委員会(通称・エンダン)」
2007年の結成時から団長を務めている高木謙さんが、福島県でボランティアをしてきたお話です。
◆震災後、長泉町から自家用車でボランティア活動をしてきたと聞きました。  いつ、どこへ、何人で行ったのですか?
 7月31日から8月1日の一泊二日で福島県いわき市久ノ浜へ行ってきました。
 長泉町商工会青年部として部員4名、事務局1名の計5人です。

◆ボランティア募集があって参加したのですか?
 いいえ。長泉町商工会青年部として何かできる事はないか考え、みんなで意見を出し合いながら現地で活動しようということになりました。翌週、長泉わくわく祭りがあり、その会場で東北復興フェアを開催する予定だったので、その商品の買い付けも合わせて行ってきました。

◆震災前から現地の商工会との交流があったのでしょうか?
 現地との交流はまったくありませんでした。久の浜地区の復興活動をしている「北いわき再生発展プロジェクトチーム」という団体をインターネットで知り、そこの活動のリーダーをしている方が神社の息子さん、また、長泉町商工会事務局の青年部担当も神社の息子ということから神社つながりでアポを取り今回の企画ができました。

◆震災から5ヶ月の頃ですね。
ボランティア活動をしつつ、被災地の生産品を買うことで支援して、さらに宿泊したということは、夜はいわき市の歓楽街に出かけて現地の経済活動に貢献したのかなって想像しちゃうんですけど(笑)・・・ 街はどんな様子でしたか?人が戻っている感じとなどはありましたか?
 現地での活動前に仕入れ等をして、その夜は郡山市(福島県では大きな町です)に宿泊しました。郡山市内はとても活気があり、被災地とは思えない状態でした。まったく普通の生活です。居酒屋さんも営業していましたし、夜の町にありがちな呼び込みのお兄さん方もあちらこちらに・・・。
ただ、今回活動してきた久の浜と比べると放射線量は郡山市内の方が高いそうです。

◆デリケートな質問になってしまうのだけど、放射能に関する正確な情報入手が難しい状況で福島に行くことは、怖くなかったですか?
 あまり怖さはありませんでした。いろいろ考えると怖いのであまり考えなかったです。いろいろな報道を耳にしました。チェルノブイリよりもひどい状況だとか、またその逆でチェルノブイリとは全く爆発の内容が違うので大丈夫だとか。レントゲンのほうがひどい。サンフランシスコに飛行機で行った方が浴びる放射能は高い・・・などなど。みんなで行こうと決めたのだからあまり難しいことは考えず、いいことだけを考えて行きました。現地で生活している人たちもいるんだし、総理大臣も現地視察をしている。原子炉建屋に入るわけじゃない。大丈夫だよ!!!と言い聞かせて。 自分はもともと楽観的だし、平気平気ってノリで行ってきました。
 実際久の浜で作業をするときは長袖、長ズボン、帽子、マスク、軍手、長靴と完全防備で作業しましたが、現地の人たちは半そで半ズボンでした。
そんな恰好しているのが少し恥ずかしく、また申し訳なく感じました。これも風評被害なのかなぁと。現実はわかりませんけどね。数年後、数十年後自分の体に今回の視察の影響が出ないとも限りませんし。まぁそうなったらそうなったで運命に従うしかないかなと・・・。相変わらず楽観的なのです。

◆長泉からの走行距離と時間は?運転が大変でしたね。
往復総走行距離約1000キロ。片道およそ8時間ほどでした。
 5人で運転を交代しながらだったのでそれほど苦ではなかったです。

◆片道8時間!?平常時ならそんなにかからないと思うけど。どのあたりで「被災地に入った」と認識できたのかしら?
 福島県内に入ってから、高速道路上が緊急修理した箇所があったり、路面がぼこぼこしていて車が揺れたりしました。また、高速道路から見える民家の屋根にブルーシートがかかっているのを見て「被災地だなぁ」と、まず感じました。高速道路を降りる時は普段とまったく違いました。被災証明があれば高速道路は無料になるので、地元の車で高速出口は大渋滞です。ETCレーンはガラガラでしたがそこまでたどり着くのに30分ぐらい並びました。また、車内で現地のFMラジオを聞いていたのですが、天気予報みたいに、県内各地域の放射線量の数値も発表していました。
 そのあといわき市久ノ浜に入ってからがすごかったです。
久ノ浜商工会の青年部長に案内してもらったのですが、商工会の建物から海岸線まで約300メートルの街並みが津波にさらわれほとんど基礎だけになっていました。道路だった所を歩きながら青年部長の説明を受けましたが、うなずくことしかできませんでした。生まれてはじめて「絶句」を経験しました
「絶句」した景色、もっと詳しく教えてもらえますか?
  
「道路だった所」とは、道路かどうかも区別つかないっていうことですよね。 
 先ほども言いましたが、本当に何にもないんです。経験はないのですが、戦後の焼け野原のような風景でした。建物があった場所にはコンクリートの基礎がむき出しに。そのそばに壁が崩れたままになっていたり・・・。コンクリートブロックでできた塀も斜めになっていたり、なくなっている場所もたくさんありました。また、津波の後、火災も発生していて焦げた蔵や郵便ポスト、真っ黒になった車も何台も見ました。
 5カ月経っているのである程度片づけた跡も見受けられて、ところどころにガレキの山ができていました。中には建っている建物もありますが、建物内部は家具の残骸、折れ曲がったサッシ、割れた窓ガラス、津波が運んできた砂などが散らかっていました。
 残っている建物の壁には「解体撤去意向確認済み」や「現状保存」等書かれた紙が貼ってありました。また、そこにお住まいだった方の、自分の家に対するお礼のメッセージなども書かれていました。涙が出そうになりました。

 建物に花の絵が描いてある写真があります。 
久の浜の方が、何もなくちゃさみしいということで、解体されてしまう建物をキャンバスにして花の絵を描いていました。
ガレキに花を咲かせましょう
僕たちが行ったときに7軒ほどきれいに花が描かれていました。
これもマスコミに注目されるため、久ノ浜を知ってもらうためにはじめたことです。
噂が広まり雑誌の取材なども来ています。またfacebookでは「ガレキに花を咲かせましょう応援団」というコミュニティも立ちあがっています。



活動した時間と具体的な内容を教えて下さい
 活動時間は朝から夕方まで。
解体が決まった建物の中の片づけをしました。2階から畳をおろしたり、サッシを外したり、ガラスや土壁の残骸を処理したりしました。すべて分別して片付けます。もし写真などがあったら現地のボランティアリーダーに確認して渡します。現地のボランティアリーダーの方たちはすごく明るく元気に働いていました。また、一緒に活動した他の所からきているボランティアの方も黙々と作業を続けていました。帰りの時間も気になりましたが、途中で帰るのがとても心苦しかったです。

「解体する建物」を片付けるんですか!?
重機でバーッと壊してしまうんじゃないんですね?
分別するだけでも相当な人手が必要でしょうね。それがまったくのボランティアとは。

この作業は町や県や国から依頼されているものではありません。また、家主さんから依頼されているものでもありません。現地のボランティアチームの方が自ら進んではじめたこと。解体してしまう家の中に、写真や思い出の品、大切なものがあったとしても業者の方に解体されてしまったら無くなってしまうそうならないために進んで片づけをしているそうです。最初は余計なことをするなという意見もあったそうですが、今では解体する業者さんとも連携出来るようになってきたと話してくれました。

疲れや興奮でこちらに戻ってから眠れなかったりしませんでしたか?
 肉体的には疲れていたと思います。ただ、「やらなければ」という思いからか、誰も休もうとしませんでした。ただ黙々と家の中の片づけをしました。現地の方が少し休んでくださいと声をかけてくれなければひたすら作業をしていたと思います。
 帰ってきてからは自分たちの経験を誰かに伝えなければいけないという使命感のようなものにかられて、商工会で理事や役場の方たちを集めて発表をしました。また、来店されたお客様にその時のことを写真を見せながら話したりしました。

長泉町のオールカーシステムという車関係の会社の凄腕営業マンですよね!(笑) 
 
ボランティアツアーではなく、高木さんたちのように車一台分の仲間を募ってお手伝いに行くことから始めるなら、今からでも被災地のために何かできそうな気がします。正直、いざというときのためにも自分の目で状況を直視しておきたいという気持ちがあります。同級生や同窓生でボランティア仲間を作ったら、コーディネーター役してもらえますか?
 コーディネーターまではできないかもしれませんが、最初に言った「北いわき再生発展プロジェクトチーム」につなぐことはできます。また、彼らもまだまだマンパワーを求めていると思います。自分の目で状況を直視しておきたいというのはとても大切な事だと思います。現地の商工会青年部部長も「別に作業はしなくてもいいですよ。時間もないでしょうし。ただ、見てきたことを地元に帰って話してください。僕らの状況を一人でも多くの方に伝えてくれるだけでありがたいです。」と話していました。

 全体を通して感じたのが、まだまだやることはたくさんあるということ。また、何も難しい作業はないということ。実際今回作業をしてみて、明日からは新しく来てくれた方に指導しながらでも作業ができるなぁと感じました。
 とにかく被災地はまだまだマンパワーが必要です。老若男女問わずやれることはたくさんあります。もし時間があれば行って活動したいし、また活動してもらいたいと思います。