輪が 自由勝手旅の醍醐味

第9回  
☆ 第二の故郷 中華民国 黄色い大地に我育つ 好!☆(1987)

2007/5/10号掲載
栗原 一  
  (高2回卒)


    校門には在校生がカラフルに「熱烈!歓迎!」と迎えてくれた 先輩もびっくり















































      




















 日本・横浜生まれの日本人の小生は、父の転任で大連・奉天に支店開設で中国へ。太平洋戦争の終盤近く 奉天千代田在満国民学校の6年生在学中、母の主治医の「これ以上の治療は不可能。帰国しての転地療法を勧める」と言う進言に従った父の判断により、一家で本土に帰還しました。こうして日本での生活・就学の素人が放り出されたのです。
 私本人は、十三年間の大陸生活で、意識することなく彼の地育ちの「我が道を行く」型に成形途中だった気がします。古稀を越えた今、その道程を辿るのもまた意味有りと許されたい。母が病を得ずソヴィエトの侵攻まで偽満州に留まっていれば、シベリア抑留とか一家離散、弟妹とも残留孤児に成りかねない運命も一路となったでしょう。帰国しても母の寿命は二年余で尽きました。多大な交換条件であったと心が痛みます。
 世界で初の原爆の被爆国となって敗戦。小学校の級友とは、幼年学校に在学し内地に居たたった一人の親友の他はすべて消息不明と為ってしまいました。中学生に進学して徐々に行方が判明して来ましたが、東京で第一回の同窓会総会が開かれたのは1969年、すでに戦後24年が経過していました。国交が回復していなかったので、帰国の日まで通学し生活していた奉天(現在の瀋陽)の様子は、赤いカーテンに遮られて全く不明白でした。僅かにスポーツの交流の狭い門が開かれていた情勢に、江本千代田小同窓会副会長が日本スケート選手団の団長として中国東北地区ハルピンでの日中友好競技会に参加し、帰路許可を得て母校千代田小を撮影したプリントが戦後初の再見でした。冬季は天然のリンクになったグランドは 原爆に備えてシェルター造成中で、目茶&苦茶に掘り返されていましたが、見覚えの在る講堂・二階建ての校舎は 汚れていても凛と赤レンガの容姿を残して望めたのです。
 本編は今までの「輪が自由勝手旅〜」といささか心境の異なった状況での海外旅行となったので運筆の相違をご了承ください。


 1972年秋の「田中・周恩来両総理の日中国交正常化への会談」を経て、1978年 国交が回復し、中華民国への渡航が夢で無く実現可能になってきたのです。それから数年経過した頃、「東北育才学校」と呼び名が新しくなった旧千代田校から、校舎の改築の噂が伝わりました。すぐ同窓会本部で母校訪問の具体案検討が開始されました。
こうして戦後望郷の念高かった沈陽(奉天)への道が見えてきたのですが、新たな不安材料も浮上。それはスクラップ&ビルドの中国側の進捗度で、母校や自宅だった家屋・社宅に中学校・女学校・大学などの校舎に加えて、ヤマトホテル・満蒙百貨店・記念会館・平安座等の歴史的建造物の運命でした。 想像は大陸の蜃気楼を追い始めたのですが、具体的に日時・日程が確定するまで複数年を要しました。目的地の残像は各人各様に膨らみましたが、手探りの範囲を超えず、ニ十年の透視は不透明だったのです.。
 1987年9月13日、全国からの参加希望者の半数三十余名が羽田から、西日本からの参加者は伊丹空港から日航機に分乗、北京に向け離陸しました。ゲート空港内で男女の先輩・後輩が顔見世、喜びの表情満面の同窓会総会場が引っ越してきた雰囲気に包まれました。訪問団長のS田同窓会長も、「よかった!」と言う安堵の面持ちで挨拶は後回しに。愈々中華民国本土での訪問旅行が正夢の出発になったのです。
 「先ずは乾杯」と左党の同期生が麦酒を買いに売店へいったのですが、手にコップを握って浮かぬ顔で戻ってきました。「温めたビールって初めてだな」「ホットビールさ!」季節は残暑。キンモクセイの芳香高い頃でショック序の口の登場。共産国ですから、サービスの観念は皆無で当たり前です。空港のトイレットの入り口に個室の数だけペーパーロールの使いかけが台に乗っています。半開きの扉から、ロールを握った男性が退出してきてルールを納得。国内線の中国民航機に乗り換えても同様、ジュースと茶の容器を両手にして「どっち?」と促すだけの女子乗務員。万里の長城の上空を通過、高度が降って予想外の北沈陽空港に着陸。蜃気楼でしかなかった地上の硬さを矢張り掌で確かめました。
 迎えてくれた旧式のバスに乗ると、窓外に焦点は釘付け。見覚えの在る城門、官舎、学校に歓声・差指が止まらない。旧城内から通学区にバスが進むと、喜びと落胆の空気が混合します。南向きに変わった母校の校門前で一時停車。幻影でない建物を確認して、この日の宿舎にゆっくりハンドルが切られました。黄ばんだタイルの「奉ビル」前で下車。一行は二班に分けられ、小数班は「ヤマトホテル」と知らされると多数班から羨望の声があがります。その格差は歴然としているからです。多数班で「奉ビル」に泊まった朝、同室のS君が窓を開けるなり「懐かしい匂いだ」と眼を細める。隣に立つと直感しました。石炭の燃焼臭です。機関車、製鉄、発電、暖房すべて豊富に産出する石炭が熱源です。撫順炭鉱は露天掘りで、沈陽から2百`圏内です。
 今日は全員で旧千代田校を訪ねますが、戦後43年目の卒業生の公式訪問です。校門から教専校まで約100mの両側に、五百名を越す在校生がカラフルな服装で日中の幟旗を振って「熱烈!歓迎!」と斉唱して迎えてくれ感激しました。将校長の挨拶後、授業中の教室に案内され、机をなでたりして目頭が熱くなりました。食堂に入り、目の前で調理された地元の料理で歓待、生徒の踊り・歌唱・演奏・書道などが披露されました。あまりの見事さに驚きますと、「前教育専門校の方針を踏襲し『育才学校』として発足したので、芸能・技能の特待生」の由。つまりタレント養成科生!この中に初代の「モーニング娘」のメンバーに選ばれた菫路々もいました。「校内も希望する何処へでもどうぞ」と案内役の生徒をつけてくれましたが、ガイドはなんと英語!未熟な中国語の私に若い英語の教師が配慮してくれたのです。楊生徒も自分のEnglishが通じて嬉しそうでした。再会を約して退出し、勝手のわかる街並みを散策して宿舎に戻りました。有志で「ヤマトホテル」を訪れ、思い出の多いレストランで、冷えてなくとも我慢できる老酒などで乾杯。小学生のとき母や妹と歩いた螺旋階段に歩を進めたり、ショウを観たホールのシャンデリアを仰ぎました。
 翌日は自宅が近所だったクラスメート三人と、各自宅と友人宅の所在を確認に出掛けました。通学や参考書を求めた書店、運動具店、市場、映画館、餃子名店、病院など、遊びなれた道筋ですから迷子に成り様がありません。平安座オーナーのS君宅は「遅かった!」 立派なTさん邸は「幾所帯住んでいるのかしら?」の状態ながら現存。M日銀総裁邸も同様。隣のKさん邸は保育園に変貌。私の最も期待した最後の自宅はS君宅と同じ運命。移る前のアパートは中心街だったのですが道路一本のお陰で残っていました。一階部分が2ブロック、二階部分が2ブロックで各3LDKでした。玄関を覗いていますと住人の母娘が出てきたので、「小学生時代に住んでいた」と告げると「日本人?」「対了」と答えます。すぐ室内に招かれました。懐かしさと同時に驚きの連続です。3LDKに三所帯が居住していて、押入れがベッドに改造され畳は板張りの床に。あとは遺跡のように古びていますが引っ越した当時のままです。ガス台・タイル張りの流しや勝手口の扉。風呂場は倉庫に変身。「昼に亭主が戻るから一緒に食事をしよう」と娘に支度を命じます。「願ってもない事」と快諾。韮炒めと落花生の油あげに麻婆豆腐、酢漬け白菜と白飯、ご亭主に妹娘も帰宅してこちらは大満足。記念写真を撮って、友好の時間に厚く多謝多謝。
 
 かくして第二の故郷帰省は実現しましたが、自分を省みて、この黄色い大地に育まれた十三年から受けた感性に改めて感謝する気持ち、多々有々です。露国・中国・韓国の級友との学び、遊び、習慣、実生活からの人間性の影響は本当に得がたい体験でありました。



黒竜江からの新婚旅行の花嫁さんをモデルに拝借