輪が 自由勝手旅の醍醐味

第6回 不思議と神秘の国インド 1985 
2007/2/10号掲載
栗原 一  
  (高2回卒)

     
世界一美しい贅沢の極限たる墓地 タジマハルに詣でる













































      



















 私達の海外旅行の醍醐味を決定的に位置付けたのは、正にアジアの西端の国INDIAへのTripでした。以来訪れた国30有余、30回以上に及ぶ機会に6回がインドへの自由旅になりました。1985年の正月休暇の8日間、毎日が実に興味溢れる舞台だったのです。

 冬でも象と一緒に泳げると聞き、立ち上げたプランはスリランカでした。便数が少なくて席が確保出来ず、急遽インドに変更したのです。これで不思議な国への道が視界に入ったのです。フライト便はAir INDIAのジャンボでしたが、客席はいかにもインドらしく、ターバンを巻き上にカーブしたヒゲの召使いのイラストが窓枠の両側に描かれていて、思わず笑顔になりました。スチュアデスは勿論サリーをまとった美人揃いで、全員上流階級の子女であるのを知りました。インドとは時差3.5時間、日没後眼下に一際明るい都市を望みましたが、香港の上空でした。デリーのインデラ空港に着陸したのはPM11:00 、入国審査官は軍人で ライター・ボールペンのプレゼントを手話で示しました。インド人の手・指は実に巧みに意思を伝えます。この民族の天才的な能力は、さすが零(ゼロ)の発見者を輩出した人種と納得させられます。仏もジプシーもインド人がルーツですから、神秘的なのもうなずけるでしょう。
 空港ターミナルを出てからもショックは続きました。迎えのバスに案内される途中、何度も黒い物体に躓き驚きました。河岸のマグロのように人間がビッシリと地面に転がっているのです。 これはエライ処に来たゾと手に汗を握りました。やっとルームランプの点いたバスに座ると「日本にはカローラという車がありますね?私の名はアローラです」一発でガイドの名と顔を覚えたのです。
 チェックインしたのは5つ星のHotelハイアットリージェンシイ。この日からカーストの差別に直面することになりました。高級ホテルでしたので、コンシェルジェ・部屋環境・食事などグレードの高いものでした。

 翌日の観光はオールドデリーのレッド・フォート(赤い城)から始まりました。まだ朝モヤの立ちこめる正門を入り、クタミナル塔を巡って中庭を歩きましたが、写真を撮る背景には事欠きませんでした。幻想的なモヤに霞む赤砂岩の直線的な砦、高く構築された城壁は石の持つ重厚さが歴史の変転を訴えてきます。ワイフもこの雰囲気に満足げで、スカーフを結び直しポイントに立ちます。何処からとも無く手押し車に、ちいさな竃をのせチャイと油菓子を商っています。無造作に折り紙の三角に盛られたのは揚げ餃子もどき、初めて味あうサモサにほっとインドを感じました。
デリー銀座のコンノット広場で土産店を散策、見るだけでバスに乗りピンクシテイと呼ばれるジャイプルに向かいました。
 車窓から眺める初めての農村地帯。日本の8倍の広い面積と8倍以上の人口を実感しながら200kmの仮舗装の道を走るが、すべて未知の舞台ゆえ退屈などしている暇は一分もありません。次から次へと現れる村の商店街。悠々と車道を埋める神の使いの牛達の行列。ガタゴト走る間にジリジリと開いてしまう窓ガラスをガムテープで固定する用途も知りました。小休止したドライヴインにハンモックや籐で編んだ縁台が珍しくてデンと寝てみました。
禁酒の国ですがドライヴァーは頼まれた酒瓶を、運転席の箱に隠します。アンタッチャブルのインド版でした。 
 3〜4人の男を並べて、白い服を着た人品卑しからぬ男が力いっぱい平手で顔を張っていますが、男達は黙って受けています。カーストの上が下を制裁しているのを現実に見ました。
 ジャイプルでは建物全体が透かし彫りになっている「風の宮殿」を表/裏から観ました。祭りやイベントの見物に貴族やハレムの女達が顔を見られずに眺められる工夫がされていたのです。マハラジャが建設した天文台も見学しましたが、直径8メートル程の日時計が一分の誤差も無く目盛りを指していたのに驚きました。
 この後もインド人に驚かされた事実が何例もあります。
 語学の天才も一例。インドには18種の公用語があり紙幣の裏側に使用されている文字で印刷されています。人口の8割がヒンドウ教なのでヒンドウ語・イギリスの植民地時代が長かったので英語・南部地方のタミル語・北部に多いサンスクリット語・自分の住む地方の言語・など最低5種の公用語を読み書き出来ないと役所や金融機関・学校などの申請手続きが出来ません。
 ジャイプルに一泊。インド式のナンとチキンカレーの朝食をとり、Hotel内のBankで両替をしてバスで旧都ファテプルシクリに向かいます。矢張り全部赤砂岩で造成された宮殿ですが、水利が悪く沐浴場にも水が貯められず10年足らずで遷都の運命でした。移動した歴史博物館で、紙幣の裏の模様にもなっている運命の水車の原型を見学、そして今回の旅のハイライト アグラの市内に入りました。 ゲート空港の首都デリー ピンクシテイのジャイプル 第三の街アグラを結ぶ黄金の三角を観光のゴールデントライアングルと呼んでいます。短期間で要領よく名所巡りの可能なおのぼりさんコースです。でもこの三都市での出会いが以後のインドとの数奇の関係を結ぶ糸になったのです。
 アグラが今世紀恩恵を受けている、世界三大遺産の一つのタジマハルは最愛の王妃のためにシャージャハン王が国勢を傾ける巨額の財を注ぎ込んで建造した、地球上で最も美しい白亜の墓です。赤い正門のアーチ型の額縁から望まれるその優雅な容姿は、息をのむ程でした。200b位の長方の池に緑の蓮の葉が浮かび 左右の階段に誘います。そこで素足になり 広い回廊に登ります。遠望したときは見えませんでしたが、回廊に歩を進めると、建物の裾の部分に 繊細な模様が、宝石の細工もかくやと白い大理石に象眼で埋めてあるのです。緑・橙・桃・茶・真珠貝など、どの位の工人と時間が必要だったでしょう。インド国内は勿論 中国・イタリアからも輸入した大理石などで、流石のムガル王国が財政困難になったのも当然の結果だったでしょう。
 首都デリーに戻り市内をフリーで散策することにしました。迷子になってもハイアットホテルならタクシーでも軽タクでも喜んでOKです。それも非常に安い。先ず軽タクを拾いデリー銀座のコンノットに行きました。
香辛料の店やアクセサリの店、その内忘れ物を思い出しホテルに電話を掛ける段になって、公衆電話の無い事に気が付きました。郵便局で借りましたが通じません。コインだけ戻ってきません。理由を聞いてもニヤリとするだけ。訳が解って歩道に出たとき「今日ワ」と挨拶されました。「きみ、にほんご・・?」「ええわかります」とよどみなく答えます。電話を掛けたいと言いますと「店からどうぞ すぐそこですから」とソツがない。驚いていると「このあいだお店に見えたでしょう」「!」と彼は笑顔で店を指す。ボスは少年の説明に首を一度傾けてOKです。

 ガイドのアローラ君 コンシェルジェのミス・プレッテバさん ジャイプルの店主アブドル君 コンノットのボスMRジャインと少年イドリス
第一回のインドへの旅で出会ったこの人達とは22年後の今でも交宜が続き、家族的な関係を温めています。勿論「輪」はもっと広がっています。ですから次のプランの軌跡も同じになりました。仏陀ヶ谷とガンジス川の聖地ベナレスが加わりましたけれど、再会が楽しみで実行したのです。

水利が悪く廃都となった ファテプルシクリに立つ