輪が 自由勝手旅の醍醐味
第2回 2006/10/10号掲載       栗原 一 (高2)
 ★デンマーク ★ノルウェー ★チェコ
 次の予期せぬ海外へのフライトも、降って湧いたような事件でした。
訪問国も デンマーク・ノールウェイ・チェコ・オーストリア・スイス・ギリシャと
6ヶ国を巡る、オーダープランのツアーだったのです。税理士のカップル5組と、その知人と、不要家族の20人余り。私達を指名したのはワイフの兄で、自分達夫婦が日程の都合が付かず声を掛けてすぐ行けるのは、栗原のカップルだけだと振ってきたのです。人の懐も心配せずにです。
でも内容は魅力的でした。
 指定HOTELは、クラシックタイプでモダンはNG。
 必ず連泊のステイで、一泊での移動はなし。
 食事は3食とも、レストランを予約の条件で発注したオリジナル。
価格を聞いて貧乏人のこちらは驚きましたが、2度とこんなチャンスは有るまい、と受けました。旅行社側から客への資格条件が有ったのですが、義兄が保証人となりパスしました。

 出発は1977年6月下旬、エアラインは SAS(スカンジナビア航空)
機種はロッキード・DC−10でした。デンマークへの直行便はロシアの上空を飛行出来なかったので、アラスカのアンカレッジに寄航し、マッキンリー峰を横目に北極大陸を横断して北欧を南下、首都コペンハーゲンへ合計20時間のフライトでした。
タラップを降りて地上に一歩を踏んだ時、思わず掌でグランドを撫でました。

アンデルセンの母国 デンマーク
 初のヨーロッパ巡りで、一番目の国デンマークのゲート空港から乗ったリムジンは、ボルボでした。向かったのは公園でしたが道路に沿って並ぶ茶色の柱に白壁の家々は、眼を遮るフエンスは無く別荘の雰囲気、そして一様に窓を飾る白いレースのカーテンは、カタログの頁をめくるようでした。
 リムジンを降りて河岸を歩いている時、これも初めて見るシーンでした。
列の誰かが気が付いて後方を指さした先に、道を横断する水鳥の列が眼に入ったのです。先頭に誘導する親のカル鴨、続いて七・八羽の子鴨が遅れまいとついて行きます。イヤもう一羽、九番目が道の端でためらっています。親鳥が振り返るとその末っ子が、羽をひろげて群れに追いつきそのまま草むらに消えました。そのとき10bほど離れたところに5歳くらいの男の子と父親を見ました。父親の手には犬をつないだケーブルが握られていましたが、息子と犬に野生の生き物に対する優しさを教えた空気に包まれて見えました。
 公園の水辺の岩に人魚のブロンズが座っていて、視線を水面に落としています。小さい像ですが100年も愛されています。



 リムジンで第一泊目のHotelに着きました。
ガッシリした木組みの建築で入り口の上部に INN とありました。
200年くらい経た宿でしょう。渡されたルームKeyにも ズッシリと貫禄が固まっていました。
 翌日はハムレット所縁のクロンボウ城を訪れ、紋章やステンドグラスの本物と接しました。 INNの食事は素朴な感じでしたが、アルコールに弱い私達には、このあとワインが重荷となりました。それと通貨。クローネの硬貨は、ズボンのポケットの底が抜けないかと心配でした。
 次の日のデイナーは市街地のチボリに案内され、本場のバイキング料理にお目にかかりました。感想:なんて外人は大食漢なのだろう!
名物のニシンの酢漬け その巨大さに仰天。
気が付けば他の食材も皆ジャイアント。さすが海賊の伝統満杯でした。
 でも眼を楽しませて呉れる物もたくさん有りました。
商店のウインドを覗けば室内装飾の豊かさ、カーテンは初日に気が付きましたが、結束するロープ類、ドアのノブに下げる飾りとか、それに食器類デイッシュとかカップ、キャセロール類のシンプルで使い易そうなグッド デザイン 洋食器の美しさに、改めて認識を新たにしました。
 次の日の午前、空港に向かうリムジンの窓外に現れては消え去るアジサイの樹の見事さと、巨大さ。 
これも忘れ難い印象の一編。 
                
                     



★白夜の国 ノルウエー★
 私達が訪れたのは 6月末だったのに薄曇りの天候で、陽が沈むのは真夜中の何時間かで カーテンを閉めないと夜の感じがしませんでした。
 ゲート空港からベルゲン市のHOTELにチェックインしたのは夕方5時頃。
部屋に入って、着替える前に入浴しようと、猫足の大きなバスタブに湯をためていると、床にも湯が流れてきたのです。
通報するとメンテナンス員が来ましたが、「またか」という表情で、あの重いバスタブをズズーっと 5aくらい動かしました。排水口と位置がずれていたのが原因でした。日本では無いことです。
 一騒動あって階下のレストランに行きデイナー。 
鰊のマリネはもう驚きませんでしたが、サラダにレタスがなく長葱の斜め切りが、アスパラと寝ていたのは初対験。 サラミ、トナカイ?のハム、チーズ類の塩辛いこと!
 食事の後 まだ街並みは明るいので散歩に出ました。
そんなに大きくない教会の時計の針も、9時と楽に読める白夜です。
 翌朝は、徒歩で港湾に出て、桟橋から200人乗りくらいの遊覧船でフィヨルド見物に出航しました。乗船客は100人余りで空いていました。
 走り出してすぐランチボックスが配られました。HOTELで朝食は済ませてきたので、どうしたものかと顔をあげると「ブレックファスト」と隣の中年紳士フタを開けてフォークでうながしました。朝食のWヘッダーかと思いつつ従いました。座席でゆっくりと展開するフィヨルドの景色を愛でるのも佳きかなと、ワイフと頷きました。氷河が創造したV字のキャンバスに、白く、細い滝が望めます。この時期は針葉樹も新緑で、ほとんど無風のなかのクルージングでした。アッパーデッキに出てみるといろいろな国のグループが景色を愉しんでいました。 「ブレックファスト」の紳士は、こちらの問いに「イズラエル」と答え、ビジネスで乗船したそうです。 
                  
金髪が多いので北欧の国の人達でしょう。子供の性別が逆にみえましたネ
可愛いので女の子と思っていたら、美人のママに「BOY!」と訂正されました。
 2時間後、フィヨルドの谷のやや平地部分の桟橋で下船し、登山電車に乗り換え、今度は光る水面を眼下に、尖った山々の肩の部分を右へ左へと登って行きました。車掌がカメラ・チャンスをプレゼントするため、次のコーナを回った地点で3分停車すると告げてきました。連結部で扉を開けた時凄い音とともに、階段型の瀑水の前に停まりました。
恐怖を感じるほど至近距離で圧倒されながら、シャッターを切りました。
                   

 スエーデンに近くなったフロムという終点で、首都オスロ発・ベルゲン行きの電車に乗り換え、下山のコースをたどりました。最後部の車輌で展望を楽しんでいたのですが、線路の両側に点在するペンション風の家屋が、みな農家であるのに呆れるほど驚きました。雪と氷と、樹の緑と、花の赤と、実りの黄色と、自然のパレットの素晴らしさを想像させるルートでした。
 『ベルゲン・NORWAY』とラヴェルの付いた アンチョビのオイル漬の缶を開ける度に、思い出が甦ります。



★重厚で複雑さを持つ国 チェコ★
 1977年。チェコはまだソヴィエトの勢力下にあり、旅行するには面倒・不便なころでした。北にポーランド 西にドイツ 東にソ連邦と、昔から交通の要衝でしたが、スロバキアと合同・分離を余儀なくされた直後だったと思います。大戦中はドイツに踏み込まれ、1968年「プラハの春」に幕が下り、少し落ち着いた時期でしたので、チェコが旅程に入っていたのが参加の決め手でした。でも東ドイツと同じ共産圏でした。ノルウェーから飛行して、プラハの入国審査官の前に立ったとき、緊張の一瞬がありました。
 バスで市内に入る丘で、逆光のなかに緩くうねったヴォルタヴァ河が反射し、実に印象的でした。 
 チェックインしたHOTELはメインストリートの中間に位置し、やや上り坂になった1`先が教会で、まさにその前にソ連の戦車が陣を構え「プラハの春」の終了点が遠望される地点だったのです。
 夕食はHOTELのレストランでしたが、何も記憶に無いほど、質素なテーブルだったはずです。
 夜は街灯もまばらな路を歩いてヴォルタヴァ河に出て、4階建てくらいの劇場に案内されました。木靴を履いて大袈裟な振り付けの、コミカルな民族ダンスを鑑賞しました。大きな斧で薪を割り、勢いあまって自分の木靴を二つにしてしまうアクションに、拍手がわきました。
帰路は、希望して市内電車に切符を買って乗車。
珍しそうに見ているプラハの人達と同乗しました。




 翌日はバスで河に沿ってスロバキア方向に東進、コノフィスチェ城に行きました。私達は遺跡・古城に興味を持ちますので、8_ムーヴィとカメラで撮影を続け、バスに戻るのはいつもアンカーでした。この城の跳ね橋、見張り台、城内の図書館など、光と影のなんとも言えない被写体の歴史を掴むことができました。
 城の側道に駐車していた「スコダ」というチェコ製の乗用車も初めて実物を見ました。ボデイから足回り、ヘッドライト運転席、計器類、車に関しては日本も後発組ですが、かなりの差を感じました。でも立派に国産車ですから機関銃の優れた技術も見えない所に組み込まれていたでしょう。
 次の日フリータイムに街を散策しましたが、現実を見た体験の一つ。
数人が列を作って何か買っているようなので前にまわってみると、アイスクリームの製造販売店でした。列に並んで待ち、私達の番になりますと年配の女店員が手を横に振ってNOのサインです。お金かな?と紙幣を見せましてもNO。どうやら「外国人には権利が無い、売れない!」と解ってきました。
 HOTELに戻ってから、主たる観光ポイントの、プラハ城とカレル橋に案内されました。ボヘミア時代から建設が始まって完成まで600年を要したと伝えられるプラハ城は、尖塔の多い市内でも、ひときわ目立つ荘厳さと規模の大きさを誇り、街のどこからでも望むことができます。
城内に入ると、左手の台座に高さ4〜5b、長さ10bほどの巨大な王の棺が銀色のにぶい光を放って置かれています。
厚さ25aくらいの純銀製に彫刻がきざまれていている逸品で、重さは20dを超えるでしょう。
城内一周しながら、建築に600年を費やした事実が脳裏を離れませんでした。  
 下り坂の石畳を河畔までたどり、カレル橋の一端に立ちました。
両側の欄干に20体を越える石造が立ち並び、橋を堪能しようとする人達が、行きつ戻りつしていました。14世紀なかばの完成で、この河最古と聞きました。
スメタナが交響詩・「我が祖国」で 「モルダウ」を作曲した心境も伝わってきました。