輪が 自由勝手旅の醍醐味

第18回 
☆地球の裏側へ・PERU・インカの遺跡を歩こう☆・・・1999 May

2008/2/10号掲載
栗原 一  
  (高2回卒)



一緒にと頼みましたら着替えてくれたインカ末裔の人たち














































      




















 日本から一番遠距離の国は何処だろう?
地球の中心に向かって巨大な針を刺したら先端はどの辺りに頭を出すのだろう?
ちゃんと計算済みでした!大西洋南部の海中で南ブラジル沖だそうです。ですから最遠国はブラジルで次は国境を接するアルゼンチンか、ペルーになります。遺跡を条件にするとペルーに惹かれます。大河アマゾンの源流を含む急流と長大なアンデス山脈の神秘な峰々。そこに数千年以前から営々と暮らしてきたインカの民族と謎の多い生活文化。 全く未知の地域・国なのであれやこれと想像と夢は膨らみます。

 進路はPERUと決めましたが、事は簡単ではありません。単純に半周しても2万`強です。USA経由だとLA(ロスアンジェルス)がゲートになりそう。LAと隣国MEXICOで乗り継ぎ、カリブ海を飛び越えてPERUのリマが終着ゲート。内陸の遺跡へは更に国内線でアンデスの高地クスコに飛びます。陸路も不可能では有りませんが時間が掛かり過ぎます。日程調整中に2年前トルコ・イスタンブルで知り合った米人夫妻に電話を掛けたら不在でしたが時差が合ったころTell call。「FAX,FAX your trip plan、ok? 」実に短い会話でしたけど意味は通じました。帰路にMEXICO に寄るようにとのメッセージと解釈しました。当方はリタイア直後で時間は手に入れましたが、費用は膨らむこと必至です。バブル景気が弾けた頃でフセイン長に「退職金を要求するのか?そんな時勢ではない!」と宣告されたばかりでしたから、失業保険を頼る位しか知恵は出ません。で、ケ・セラセラと無手勝つ方式で行く事にしました。全行程を 16I2=32日間としルート作成を始めましたが、必ず予期せぬ出来事・想定外の事件が発生します。Trip=trouble ですから・・・。
 PERU に焦点を合わせた案の一つに、ペルー人の友人が存在したからです。他社の社員でしたが取引の関係で会う内にお互いのお国柄がよく話題になったのです。日系人が親戚にいて日本語も堪能でした。往復の航空券を手配中に旅行社の担当員からの有り得ない知らせが耳を疑わせたのです。PERUの返事が遅いと感じていたら国営のペルー航空が破産してお手上げ!そこでPERUの友人に正否を確かめたところ「心配ない 他国のヒコーキは毎日飛んでいる」と平気。ノウハウを問うと自分の叔父がLIMA市で旅行社を経営、東京にもポイントが有るので話そうか? 頼む!2日で手品のように搭乗券を発券、中野のオフィスで渡すとのRe。ついでに世界遺産で最もリザーヴの難しいマチュピチュのHotelまでセットで用意してくれました。32室、最多でも96人しか宿泊出来ないHotelマチュピチュ・ルイナスのプラチナ・バウチャーですヨ。この時ほどコネの強さを実感したことは有りません。マイケル・ジャクソンでなく私達カップルですからネ!
 この話を受けた旅行社の担当員は「いつも無保険ですが、今回はスケジュールを拝見して是非契約をお薦めします」と言われましたが「受取人は誰?」と無手勝つ流を通しました。いままでアメリカは私達の自由旅に全く問題外のお国でしたのでAir line なんて「ヒョ−ショージョー〜〜パナメリカンエアライン」くらいの認知度でしたから、デルタ航空と聞いてもピンと来ませんでした。ロスアンジェルスがゲート空港で一度トランジット入国・出国のダブル手続きをして乗り継ぎ、MEXICO Cityで一泊。翌日アエロ・メヒコでペルーのリマへ4時間のフライト、入国して一泊。翌日問題の国内線PERUAirでなくアエロ・コンチネンタルでアンデスの都市クスコに到着。日本を離陸してから3日目の午前11時でした。直行便は無いので最低2度のトランジット。それもスルーでないのでスーツケースの受け渡しはセルフ。流石に地球の裏側は遠いですね。それに最終到着地が3600bとほぼ富士山頂と同じ高地でしたので、Hotelにチェックインした時にはワイフ共々予告された通り高山病の症状になっていました。処置は特効薬的マテ茶を飲んで安静に寝ることでした。翌朝早く山岳列車でマチュピチュへ行けば高度が下がるので高山病は霧散するとのご託宣でした。

 5時起床。夜も明けない6時発の列車に乗り込みました。4両編成・黄と橙のツートーンの玩具みたいな列車で9割が観光客です。あとはカラフルな原住民でインディアンと幌馬車に乗った気分です。山岳らしくちゃんとスイッチバックの駅も有りました。陽が昇ったころある駅に到着。ホームは無く線路脇にロープを張って手織りのカーペットやポンチョを展げて柄をアピールします。停車時間は運転士次第で値の交渉はどうなるのでしょう?一日一往復ですから帰路の方が脈が有りそうです。
3時間余で終点プエンテ遺跡駅着、緑色のバスに乗り換え九十九折の坂をエンジン全開で登りますと右手森林の奥にシンボルのワイナピチュ峰(若い峰)が姿を見せ、客は席を起ち願望が叶った笑顔になります。500年前スペインの侵略軍も発見できなかった空中都市がいま眼前です。探検家ビンガムに偶然発見されてから89年目の姿です。バスの折り返し点の直前があのHotelマチュピチュ・ルイナスです。階段を昇る私達を指さす人もいました。チェックイン後ランチもそこそこにゲートに歩を進めました。改札を済ませ草葺の家の横を回った時、一気に幕が切り落とされました!遂に一番遠い遺跡の前に立ったのです。眼下の谷間を流れる奔流から400bの台地に、万に達すほどの住民が見事な石組みの居住区を建て、今も清水を供給し続ける水道を導入し、農作物や家畜を育てた驚異の集団。それを可能にした王は神に次ぐ賢者であったでしょう。

 総ての住民に号令し、神威を伝えたであろう祭壇前の舞台を抜け、若い峰の登山口で4人のグループと挨拶を交わしました。リタイアしたので30年温めた念願の遺跡に来たと告げますと「オメデトウ」と肩や背を叩かれました。オーストラリアのシドニィからのtripとのことで、Tokyoからと答えますと遠地からWelcomeと言われ、一人のマダムは娘が大阪に留学中と親しみの笑顔を見せました。峰を背に記念撮影を写したあと写真を送るからとMr.にアドレスを頼みメモを貰いました。そこにはアルファベットと数字が一行記されていました。私が家の住所をと求めますとコンピュータの方が早くて簡単と言いながら「Why?」という顔。ユーザでないと判ると「Youは日本人でしょ、今世界中のPCの50%は Made in Japan。それなのに持っていないなんて・・・・迷惑と思わない?」これはショックでした。でもこの一言が「シニア・ユーザ」への貴重なパスワードになったのです。 インカ文明に続いてマヤ文明にも貴重なパスワードは醍醐味のピンコードとしてしっかり刻まれました。日本語の現地ガイドを務めてくれたセニョーラ・サイーダさんのエピソードも紹介したかったのですが・・・残念。アディオス


(左)幕が切って落とされた地点です。 若い峰が印象的でしょう。
↓ 頂上直下まで畑です。勿論登りました。


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(右)「迷惑」というパスワードを出してくれた人たちです。
 


このゲートが集落への入り口です 細いですがメインストリートの始点です

彼女のつくるジュースは ムーチョ美味しいのよ また来てね ! ハポンセニョール!