輪が 自由勝手旅の醍醐味

第14回  
☆旧友ユーラ・シチューキンをRUSSIA・ウラルに訪ねて☆ 1994/Sept
2007/10/10号掲載
栗原 一  
  (高2回卒)



94秋 訪露 St.peteru Hotelアストリア
美術館鑑賞のあと食事に寄ったHotelアストリアのピアノ:ロビーにて

 













































      



















 私の生涯で最初の異国友人、そして今も友好の付き合いが継続しているユーラ シチューキン ゲオルギー君。金髪・蒼眼・長身の小学校同級生です。私にとっては外人の典型でした。中国東北部遼寧省瀋陽・旧偽満州国遼東商都・奉天が出会いの地点です。  

 春四月寒気の残る晴天の朝、父兄・保護者に付き添われて新一年生の男女生徒が講堂に集合しました。受付で新編成の組み分けで白・青・赤の男女混合の3クラスに分別されました。ユーラ君とはこの時からクラスメイトとして机を並べて同じ教科書で「サイタサイタ サクラガサイタ」と音読の授業をともに受けました。私が驚いたのはこの白系ロシア人の子が日本語を自由に話せることでした。ですから「どうして?なぜ?」と質問したいことを次々とぶつけても「これはネ・・」と即座に答えます。日本人ばかりの学校に入学した疑問も「お父さんが決めたから」、服装から学用品まで興味の対象は尽きませんでした。中でも極めつけの焦点は彼の家がおもちゃの店だったことです。昼休みの時間などで仲良しが集まって自宅の様子などを説明している内に判明したのです。
これは事件です!
お菓子の家に住んでいるのと同じだからです。サンタクロースの親戚だと思いました。それからの6年間、先生が替わっても男子組になってからも、同じ教室で勉強した仲間でした。遠足も運動会もスケートもドッジボールも修学旅行も一緒でした。4年生の頃の冬 ハワイの急襲で米英と開戦になりましたが、大人からは全勝の話を聞くだけでした。

 昭和19年の正月、母の病気療養のため内地に帰国し横浜で中学校を受験し合格。この頃から戦局は不利に転じ、翌年8月広島・長崎での原爆被爆で無条件降伏の敗戦。
同時に在満洲の級友の消息は皆無と暗転の状態になりました。僅かに幼年学校に在学中の親友一人だけが連絡をくれました。
 5〜6年経過した頃 ニ冊のノートが郵送され、頁を繰りますと見覚えのある筆跡で級友の姓名と文章が綴られていました。この文中に、終戦後のユーラ君の情報が散見されたのです。「ソ連の通訳をしていた」というのが共通でした。
 それから四半世紀後、毎日新聞のコラムに「私はユーラ・シチューキン ロシア人です。奉天千代田小学校で一緒に勉強した友達と文通を希望します。住所 」
 その日に3本の電話がありました。「栗さんの級友だろう?」
同期で相談し、カタカナ文と漢字まじりの平仮名と英文と分担して手紙を書いて、祈る気持ちで投函しました。
 待つ事2ヶ月、返事が来ました!漢字まじりの平仮名で見覚えのある筆跡で!
「長い年月がとうりすぎました。日本語はたくさん忘れました。でもへんじの手紙をかいていると小さく思いだします。・・・・・」こうして、切れた糸は危なげながら結ばれたのです。45年の空白期が流れていました。複数人がユーラ君と文通を始めました。
 彼に返事を書くのはとても楽でした。よみやすいように簡単な漢字を楷書で書き、平仮名の口語で連結すればよいのですから。ユーラ君は日露・露日の辞書を引きながらの作文ですから10日は必要です。郵便は地方都市ですので片道15日、最短で40日かかります。
 94年の年賀状に「今年こそ君に会いに行くよ」と書いて出しました。「嬉しくて天井に頭をぶつけるほど飛び上がった」と返事が届きました。それから疑問点の箇条の項目の消去作業がスタートしました。年末まで11ヶ月しかありません。最大の難点は、彼の家の電話が工事中で完成は不明だったことでした。連絡の手段で最短はFAXでした。しかも一方通行。彼の年金では5$の返信料負担は無理でした。外務省に行き、ソ連大使館に行き、ソ連の旅に詳しい旅行社に行き情報を収集しました。ソ連大使館の係官は流暢な日本語で「厳しいのは私の国の方では無いですよ」と笑顔で応じて去りました。

 この年の千代田小の総会で「ユーラ君に会いに行く」と発表したら「栗さん行くならウチも行くわ」と勇気ある発言をした女性が現われました。大阪に住む同期の小川智子さんでした。おとなしい印象の人でしたが芯の強い面も内に秘めていたのです。ユーラ君も喜びました。彼の行動で査証・旅程・航空社・通貨・そして訪問時期・泊まるホテルの選択と次々クリアしていったのです。入国は隣国のヘルシンキへ飛び、列車で国境を越えStペテルブルグに着くようにと指定が来ました。長男が働いているし、エルミタージュ美術館ほかモスクアより見せたい街だからが理由でした。
 9月下旬、国際特急列車が大きな駅で停車した時、窓ガラスをコンコンとノックした笑顔のユーラ!車内に入り握手をした時「まだ乗って居たいですか?この先に線路はないですよ」彼の第一声のジョークでした。ホームでの会話でショックだったのは「ママは10日前に召されました」本当に残念でした。病院もある大きなホテルでしたが食事の貧弱さは諦めるしかありません。エルミタージュは流石の美術館でした。次に愈々列車なら70時間の距離を3時間でウラルの工業都市エカテリンブルグ空港に到着。ユーラ君が校長だった工業学校の教え子の運転するカローラで、隣街レブダに向かいました。彼の住む公舎のドアを開けると「ダダダ!」と機関銃のように露語を発するエフゲニア夫人に迎えられました。ウラルの周辺は原子関係の設備が散在する機密地域で、外国人の個人的移動は時間単位の日程の許可とホテルの予約が不可欠でした。ホテルの問題は夫人の「カモンナ・マイ・ハウス」の一声で決着。応接間&書斎のソフアに招かれ孫ちゃんのカーチャも珍しいヤポンスキーにすぐ馴れました。特にふっくらと優しい顔の小川さんはお月さんと呼ばれ毎夜添い寝する位でした。土産はそれはユニークなものでした。自転車のタイヤとチューブ・明治キャラメル・森永チョコレート・酢昆布・木綿の下着・緑茶そして同期生のカンパの$この現金は固く辞退しやっと航空券の補助の意で受けました。
 翌日からユーラ君が校長だった学校を訪問し、校長室の椅子に座ったり、彼が講座を持つ日本語教室に参観し日本語と英語の交ざった会話を楽しみました。この中にいたマリンスコアさんは日本語コンクールで優秀賞のご褒美で、大阪外語大に一年留学し小川さんにお世話になりました。 昼食をご馳走になったあとレブダの街並みをユックリ歩いて帰宅する時、ユーラ君がかなり名士であることが推察されました。すれ違う何人かの人が尊敬の面持ちで挨拶をするのです。地元の工場で電気工学の指導をしているうちに上司に認められ、私設の学校を建築後教壇に立ち校長に昇格したのだそうです。

 並木路を歩きながら青く晴れた空を見上げ「長い空間があったのに小学校時代の友達が会いに来てくれて、このように並んで歩くなんて夢のようですよ。もう死んでもいいような気持ちです」

 翌95年、同期生でユーラ君を日本に招き、全部クラスメート宅に泊り友情の素晴らしさを確かめあいました。我が家で「幸せです。もう死んでもいい」とふたたびつぶやきました。レブダで会ったとき5歳だった孫ちゃんのエカテリーナは美人の19歳になり、恋人ができて心配のユーラ君は まだ天国には行けそうにありません。


95YURA我が家に招待=千代田小同期生で日本に招待:我が家でもくつろぐユーラ君