輪が 自由勝手旅の醍醐味

第12回  
☆毎年行きたくなる不思議な国 神秘なインドへの道☆(1993-March)
2007/8/10号掲載
栗原 一  
  (高2回卒)


聖書の一頁をもらいました













































      




















  返還前の沖縄tripに始まった海外への旅は84〜86年の訪印から中国tripを経て、1993年の自由旅の目的地は、二度目のINDIA tripの際にジャイプルのアグラ城の「天文の間」に赤い糸でワイフと結びつけたオマジナイの通り『ゼロを発見した民族のインド』と自然に見えて来て、三度目の印度への旅となりました。プラン立案のもう一つの誘因は、それより3年ほど前の成人の日の新聞の 来日中のインド人成人のインタビュー記事 が眼に留まったからです。
西インド・プーナ出身のプラシャント チャンドラ君は印刷製版の会社に就職したばかりで、FUJI FILMの斡旋で技術習得に来日、東京の研修センターに宿泊してメーカーに勉強中でした。インタビューの中にあった「日本人の家庭に一度も招かれた経験がない」と言う寂しい答えが気になったので、私の住まいから徒歩で15分の研修センターに早速出向きました。受け付けで来意を告げると在室で直ぐ面会出来たのです。嬉しい事に日本語の日常会話には不自由の無い礼儀正しい青年でした。我が家に招待し、やや遅れた正月の行事・料理をもてなして、希望したモノレールと羽田空港を案内しました。おかしかったのは、雪を実際に体験したことの無い各国の研修生を対象にメーカーが企画したスキーツアーに送り出した彼が帰京した次の日の報告。「クリハラさんに折角貸してもらったけど私のヒップが番外でスキーウェアの下は履けませんでした」あらためてサイズの差を認識。そんな彼に、西インドを含む自由旅を知らせますと「Uresiidesu Kubi wo nagakusite Omati siteimasu!」とFAXが送られてきました。さすが語学の天才と思いましたね。日本の8倍ある広いインドを、2度ともデリー近辺の同じ遺跡巡りの旅としたので、このtripは西インドを選びました。勿論世界遺産の連続です。

 成田からAirインデイアのB747でデリー経由ボンベイ(現ムンバイ)に降り立ちました。その名もWest Endホテルにチェックイン。翌日は市内を歩きました。ヨーロッパと早くから交易のあった都市ですので各所に名所が残っていて実に良くその歩みを見る事が可能です。中央鉄道の発着点として英国人の設計によるビクトリア駅、港にはシンボルのインド門、HOTELタジマハル、世界最大の胡椒倉庫などが立ち並び、エレファンタ島への観光船はインド門の裏桟橋から出航します。HOTELタジマハルは英国人が建築・開業しましたが、印度人の利用を拒否したので、憤慨した印度人富豪が隣にそれ以上のホテルを建設し見返したというエピソードが残っています。とにかく大変な人口過密都市で、発散するバイタリテイに圧倒され通しでした。
 駅前で耳掃除を初体験。体重を量って貰ったとき同様20人ほどの輪が出来、結果や如何と見守られてこちらも演者になった気分。終わって首をアッチャと傾け親指を立てると、ドッと安心の笑顔になり、料金を確かめる二・三人を残して散りました。HOTELタジマハルの歴史がどっしり彫りこまれたようなチーク材のカウンターで、午後の紅茶を楽しみ夕食までの時間を散策しました。

 3日目、チャーターしたインド製の4ドアセダン「アンバサダ」に現地ガイドと乗り込みました。エアコン付きを条件にしたのですが作動しません。抗議すると「性能は落ちるが付いている」と言う説明でした。4気筒のエンジンで丈夫一点張りの純国産車。ボンベイの南170kmのPUNAへのドライブです。農耕地帯に入って山羊の群れを草原に追っているのを見付け急停車。カメラとビデオを持ってワイフと前後していばらの垣を飛び越え追いました。一時間前に産まれたばかりの子山羊を抱かせてもらい、いばらの傷も忘れていました。ひどいインド訛りの英語でも意味は直ぐ理解できます。とげで出来た傷口に草の葉を揉んで手当てもしてくれました。赤いターバンのグランパに息子夫婦と孫の姉妹のファミリィ。 モデル代と傷の手当のお礼のキャッシュを八歳くらいの妹に渡して待たせた車に戻ると、ガイドに注意されました。「なるべく各人に渡す事」と。インド人は神からの贈り物として個人の権利を主張して家族でも分けないらしいのです。でも聖書の中の一頁のようなネガを与えられました。中間点のカンダラ峠の高点に1200ccのアンバサダが辿り着きました。カールラバージャ石窟の前のレストランで南部風カレーのランチを済ませ、200段の階段を登って心地よい風に押され素足になって洞窟に入ります。太い八角の石柱が両側に12本ずつ並立する奥にストウパがどっしりと鎮座するのが臨めます。二千年前、まだ仏像彫刻が許される前の岩窟寺です。

 峠を下りPUNAのBlue Diamond Hotelにチェックイン。チャンドラ君の住む街に入ったのです。翌朝9時、チャンドラ君が迎えに来て市内を案内してくれました。最初にプーナ砦に行きました。門扉にビール瓶程の鉄鋲が植えて有りましたが象の頭突きを防ぐ工夫でした。ビデオの撮影は有料でしたが、係員の手書きの紙切れ許可証は可愛かったですね。「もっと人間臭い場所を見たい」と言いましたら、彼は頷いて青空マーケットに入り囁きました。「あまり売り人の顔を見ないで所持品に注意!」「?」「ここは盗品市場です」なるほど動かない時計、音の出ないラジオ、両方左足の靴、開かない鞄とワケ有りの品物ばかり。逆にカメラを指さして、フィルムを売ってくれと持ちかける店主。実に面白い!

 喜んでいると、「学校を見ませんか?」・・・望むところと付いてゆきますと、中学校らしく10代の男女の生徒が校庭のあちこちに座って自習しているようです。教科書はヒンデイ語あり英語有りで内容は良く解りません。邪魔をしないように生徒から離れますと、チャンドラ君が裏門から個人宅の庭に入って行きます。勝手知ったる態度に、これもインド式かとついて行きますと、白い髭の老人が葡萄棚の前に立っています。
「父です」と紹介されました。「ナマステ」と挨拶しますと階段を指し昇るよう示します。上は屋上のガーデンで苺も実をつけており味見もgood。「父は植物が好きでいろいろ育てています」と彼。「このお宅は?」「自宅です」 「エ!チャンドラ家?」「Yes 私の家のアドレスを思い出してください。・・・near the school 」たった今まで彼はこのプランを伏せていたのです。「どうぞゲストルームへ」屋上から家の中に入るとテーブルに食事の用意がされて、年配の女性が笑顔で招きます。
「母です 今の学校の校長です」この演出には本当に驚きました。食後にはインドの古典芸能カタックダンスの指導資格を持つマニーサ・シャッテ女史宅を訪問。ワイフは衣裳を着せてもらったり先祖伝来の宝石を鼻やネックに飾ってもらったり、滅多にない体験に終始して大喜びのひとときでした。来日時の話などここでも時間が足りず、素晴らしい星空の下で再会を約してホテルに帰りました。

 翌日もアンバサダのドライブで230km北上、オーランガバドに向かいました。移動中窓は開け放ち天然エアコンでしたが、インドの空気を充分に呼吸しました。センタラインのない二車線の道路で、チキンハートのレースが連続します。対向車がライトを点燈したら走行優先を表示したことになり、どちらか気の弱い方が衝突寸前にコースを譲る涼しくなるレースです。夕方 高級のシンボルのプールを持つアジャンタ・アンバサダHotelに到着。遺跡を冠にしています。

 翌日は100km東方の第一の目的だったアジャンタ石窟群に出掛けました。現地ガイドは明日のエローラ石窟群とを受け持つMr.アランに替わりました。英・仏・独語を話しますが日本語は挨拶程度とのことでした。インドは三月中旬から猛烈に温度が上昇し40度を越すのが普通になりますが、湿度が低いので日陰はホッとするほど涼しく感じます。私たちはエジプシャンの白装束で直射日光を防ぎました。私は何時も入管で女性と間違えられるので、以前に教えられた通り鼻下にヒゲを貼り付けて臨みました。

 アジャンタ石窟遺跡は、1818年狩猟に来た英国人が谷間に追い詰めた虎をなお追って発見した石窟で、修行僧の祈祷・生活の院だったのです。長さ300mくらいのU字形の崖に大小三十余の横穴式で、教室ほどの広さと7~8mの天井高が有りすべて手彫りです。世界遺産の極め手になった菩薩の壁画、未完成のノミ刃の残る窟もあります。4人で担ぐ輿があり、どうか助けてと拝まれて客になりました。「Are you Happy?」と何度も問われましたが、「輿に乗る人、担ぐ人、そのまた草鞋を作る人」炎天下滝の汗で見上げる四つの顔が正視出来ない私は「Happy?」と自問自答するばかりでした。

 翌日は少し近距離のエローラ石窟群に往きました。車を残し10分歩きますと巨大な建造物が現われました。Mr.アランの説明によると、「約2kmに並ぶ石窟群は、仏教、ヒンデイ教、ジャイナ教が年代により3区画で構成される。最も古く大きい第12窟仏教寺院をじっくり脳裏に刻んで下さい」と。これ等の寺院は建築とは全く異なる造形物です。建築の構造力学を殆ど無視して岩盤を上から下へ彫り下げて行った彫刻なのです。高さ35m 横幅50m 奥行き80mの単体岩盤の彫刻寺院です。☆なんとも途方も無い芸術が強烈な意志をもって我々に迫る☆ 実物大の巨象、角柱に囲まれた回廊、中心に建つ六階の僧坊。岩山を屋根から下層に向けて不要な部分を取り除いた 宗教の信念を眼前にしました。

 2日連続で15世紀以前の偉業に圧倒されたまま、翌日空路オーランガバドから北へ1500km2時間のフライトで ラジャスタン州ジョドプルに着陸。日本からは最もリザーヴ困難のウメイド・バワンHotelにチェックイン。このホテルはマハラジャがオーナーの宮殿ホテルで、500室の半分を客室として営業。エントランスホールやメインダイニングルームは国の催事の無い時は一般客も利用可能で人気があります。英国人の設計施工で各所にそれらしい感覚が見られます。次の日はこの宮殿が建設される前まで宮城であったメフランガル城を観光、今に残る藩王マハラジャの絶大なる権力、財力、そして近代化に対応すべき難問題を考えさせられました。


 この旅は1993年春の自由旅ですが、三度目のインドへの道は、出会いの醍醐味の尽きない魅力の裏付けともなりました。




何時の間にか現われた不思議な僧                        
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                 このどっしりした木彫の歴史の存在感