輪が 自由勝手旅の醍醐味

第11回  
☆AFRICA・サハラ砂漠の初日の出 MOROCCO☆ (1992〜1993)
2007/7/10号掲載
栗原 一  
  (高2回卒)



日の出が近くなりました 今のうちに・・・のone shot
    













































      



















 1992年晩秋。
 地球上にさまざまな新年が有るだろうが、人生で初の舞台で初日の出を迎えるとしたらその一点Pは何処がユニークだろうか?
南極でペンギンと握手も良いだろうし、ヒマラヤのK2のピークでも凄いと思うけど、個人では不可能だろうから「もう少し確立の容易なポイントは?」と思考を巡らし、アジア、ヨーロッパ、南北アメリカ、オーストラリアとイメージを探って行き、アフリカ大陸なら何処と考えが至りました。
 日中の国交が回復して第二の故郷に連続して里帰り出来たので、次はエキゾチックな地域を選びました。しかし最長の休暇は日曜から日曜までの8日間、出発と帰国を機中泊にしても10日が限度。このモロッコ行きも解雇を覚悟の行動に決定。

 究極の目的は「サハラ砂漠での初日の出!」
 先ずモロッコ政府観光局へ資料集めにGO。民族衣装の男女がCAMELの両側にポーズをとったポスターが飾られたオフィスに立ち、資料を請求。運よく笑顔の日本人女性が対応してくれて、当方の意向を理解し話が進みました。パリとアフリカ西海岸のダカールをゴールとするハードなラリーも知名度が上がってきた頃でしたので、タイミングも良かったのです。この女性が観光局の責任者だったのも幸いしてルートやノウハウのアドヴァイスも有り、サハラの旅が立ち上がりました。日程的にも無理な部分も幸運にカヴァーされたのです。
 成田でエコノミーの搭乗券を受け取った際、しらけたムードを感じましたが毎度のことなので無視。Airフランスの747でパリに直行、スイス航空の小型機に乗り継ぎ、ジュネーヴ経由でモロッコ西海岸カサブランカに着陸、今迄にない雰囲気の入国審査に異国情緒がゾクッと感じられました。日本円がすんなり両替出来たのも、神がかりのようで不思議でした。チェックインした一泊目のホテルも絨毯やベッドカバーとかにアフリカ調が滲み、其の後の旅情に期待が膨らみました。食事で先ず気付いたのが、パン類の程度の上等な事。100年も以前からのフランスの影響が、こんな所にも現われていました。
 人種的にも複雑さがあるのは当然で、テロ対策が観光客にも厳しい空気が流れるのを初日から体験しました。写真、ヴィデオの撮影で、ホテルの正面からスタートし、カメラをパンして街頭をなめてから通行する車を追ってフィルムを停めました。道路を渡ってホテルに戻りかけたところで呼び止められました。「今ヴィデオでポリスBoxを撮ったので、フィルムを巻き戻し、空を写すように」と命じ、「二重露光して前像を消去」の要求だったのです。
 翌日はバスでアトラス山脈に向かい、有名なマラケシュに入りました。最初にスーク(市場)を探訪。必ず迷子になるのでガイドから眼を離さぬように注意あり。
「気をつけて!(バラク!)」ロバを避けた瞬間、腕を掴まれ狭い入り口に押し込まれる。ワイフと二人部屋の中央に拉致されてアッという間にショウのモデルになってしまう。2〜3分でドレスアップ!他のグループからも拍手。そのまま脱がずにスークに出ると、現地人にまた腕を取られ地下の工房に導かれました。「このベルベル族の衣裳なら帯剣するのが正装」と、アリババ式短剣を装着、ワイフは蜜蝋の首飾りで本式になりました。
 旅を愉しむ準備が揃ったので夕方から狂気の広場と呼ばれるジャマ・エル・フナ広場の催事を見物、なんとも不思議な雰囲気に圧倒されました。全部仕掛け無しのパフォーマンスを、これでもかと投げつけられたのです。柱に括りつけただけのロープを不安定に張り、相棒の頭を踏み台に飛び乗り、素足のまま絶妙なバランスで走るように渡りきると見料を集金するタイミングの良さ、人間の塔を築きあげ何の苦も無く飛び降りる鳥のような身軽さ、取り巻くオープンスカイの軽食店、口から炎を吐いて焼き上げる魔法の焼肉シシカバブ。其の後ファンタジア宮殿の騎馬ショウも、銃声とともに忘れ難い宵でした。
 カサブランカなどの都会から離れた地方のモロッコ族の一般的な衣裳は、周辺の山並みによく眼にする断層と同じ色彩の茶、灰色、こげ茶、濃オレンヂの縞模様で、ベルベル族のブルー一色と区別されます。代表的な料理は、頂点に穴の開いた円錐形の蓋つき土鍋で羊肉、野菜を煮たタジン、モロッコ風混ぜ焼き飯クスクスで、猫が出迎えるレストランで度々供されました。猫のいる店は美味と説明がありました。
 翌朝リコンファームを済ませた後、峻険なアトラス山脈の峠越えを体験しました。凍結した上、ガードレールも不備なドライブウェイを、バスは強引に登って行きます。300mはあろう谷底に バスの落下車輌が点々と認められため息が出ます。尾根近く残雪に囲まれたアイド・ベン・ハドウのレストランで極上のミントテイの素晴らしさに思わず驚きの声が出ました。生の葉を十枚ほど入れたコップに熱い砂糖湯を注いだシンプルなサービス!香りと甘さと味の絶妙な調合 セシボン。
 満足を思いながら少し歩き、川原の岩石に板を置いただけの橋らしきものの上を、手を引いてもらって渡り、カスバに入場。
賊の侵入を防ぐため小高い丘に不規則に方形の部屋を組み合わせ出入り口も不明。200程の住居に6〜7家族しか住んでいない。通り過ぎる我々を人間を初めて見るように見送るだけです。アトラスの東山麓ワルザサートに泊まり、大晦日のガラパーテイに出席。明けてミナレット(定時に祈りを呼びかける尖塔)が時々現われるカスバ街道を北上、ヨーロッパからロッククライミングに数多く参づるトドラ渓谷を経由して砂漠のオアシス・エルフドに到着。クラブ・サラームにチェックイン。ネームの通り100%アラブ風。
 翌早朝3時、この日にピッタリのベルベル族の民族衣装に身を包み、自己流で巻いたヴェールとターバンで一組のブルーピープル・ベルベル人のカップル誕生。してやったりとアラブの短剣を胴に巻きます。
迎えに来たラリー仕様のランドローヴァー4Wに乗車、道無きコースを疾走して30分、走行限界の砂丘の裾で下車。あとはカメラを守りながら、アニメのように現われたモロッコ族の少年に引っ張られて頂上へ登ります。勿論有料。
やっと辿り着いた砂丘の上で 眼が慣れて来ると、フランス人・ドイツ人の先客が僅かにオレンヂ色に染まってきた東の地平線を眺めています。待つ間に砂丘のアングルを決めたり、何枚かシャッターが切れるかテストしたりして貴重な映像を残す準備を進めました。
 砂丘の連なりが濃紺になり、嶺々の稜線がクッキリと空を分けるようになって、東の宙空が青とオレンヂのグラデーションに変化、太陽の登場が近いと告げ始めました。一つの砂丘の一点がダイヤモンドになり、何条かの光線が放射されファインダが見られなくなり顔を上げました。東京から一万数千km、時差9時間のポイントでした。

 このあと印象に強く残った事柄 いろいろ有りますが、国土に占める砂漠が広大の故でしょうか、国民の多くが、緑には格別の憧れと愛着の感情が存在するようです。車窓から望まれる樹木や農地を実に慈愛に満ちた口調で我々に説明するのです。「あれはミント畑 こちらは小麦 この樹林はナツメ椰子・・・」 
アトラス峠のミントティの味と双璧にスークで求めたナツメの実!ピラミッドのように丁寧に積み上げた見事なドライフルーツ!等級が数段階あり、店主の真ん前の逸品が特級!並みの十倍のプライスでした。
 これも食べ物の話ですが、「マクドナルドハンバーガーのモロッコ一号店が 開店して一ヶ月」と、バスのドライバーが勝手にコースに入れました。彼に付き合って注文したのですが、一向に渡される様子がありません。店員の女性たちは私たちの品定めのおしゃべりに夢中です。ドライバーも落ち着いたもの。「遅い」と言うと「作るのだから15分がフツー」いわゆるmoroccoタイム。
 もう一つ。帰国の日、出発2時間前に空港着。どうも様子が変調だ。間もなく理由が判明。ハッサン国王の操縦する自家用機が延着するので滑走路を閉鎖中。他機のフライト予定は全面的に不明。本当に平和的。結局パリで乗り継ぐAirフランス機には間に合わずパリ泊まり。FAXで延着を社に連絡。おかげで航空会社持ちでHILLTON hotelに泊まり、ルーブル美術館を覗いて帰国。
 デスクは有ったけど「今後休暇の前後の延長は禁止する」のお達しがあった。
これは日本での後日談。お国柄はいろいろのモロッコ縞模様。
 だから自由旅の誘惑には絶対に勝てないのです。





モロッコ族特有の縞模様をまとった遊牧民と
・・・駱駝は前を歩いています・・・