輪が 自由勝手旅の醍醐味

第10回  
☆ 遼寧省・沈陽育才校に再び里帰り  ☆ (1990/September)

2007/6/10号掲載
栗原 一  
  (高2回卒)


    東陵参拝・連賛君と徳さん −右から二人目が直系子孫の金連賛氏です














































      




















 

 日中国交回復後、最初の奉天千代田母校(東北育才校)訪問から三年後、記念時計塔贈呈式を機に再訪のプランが立案されました。勿論参加の申し込みをワイフ同行で決めました。私が幼小期を過ごした大陸の雰囲気を、共に感じたい 感じさせたいと言う気持ちに迷う事はありませんでした。日中両国に歴史の差は倍以上存在し、多くの文化はこの大陸から伝来したものですから戦火が消えた今、自由旅が可能になってきて平和の素晴らしさを改めて受け止めました。

 出発ゲートは成田。全日空の利用で大連への直行便。機体はB727でした。3年の経過に両国間の状況にはかなりの変化が進んでいました。中国民航とANAですから機体の内装も機内食も、第一スチュアデスのサービス振りが段違いです。過剰とも感じられる日本の機内サービス、日本人らしい発想でおしぼりとかざる蕎麦とか搭乗券のうなぎのぼり?とか、北朝鮮の領空を避けてその名も懐かしい周水子(日露戦争の終結時乃木大将とステッセル将軍との会見場所)空港に着陸。

 貧弱な建物の出口には、東北育才学校の後輩で、大連理工大学教授になった孫交里さんが迎えに来てくれていました。彼女の父親は満州医大を卒業した医師であり、娘の交里さんは88/89年と東京の商社にコンピュータの研修に留学して帰国後間もない頃でした。我が家にも何度か生活体験に来た日本語を良く理解する進歩的な女性です。父君がキューリー夫人のような研究者に育って欲しいと交里(ジャオリイ)と名付けたそうです。日本語はラヂオ講座で独学、ほとんど会話・文通に不自由のない才女になっていました。拙宅を訪問の際、ドアを開けたワイフを見て「オバサンじゃない!」と発した第一声は今でも語り草です。

 この1990年の訪中里帰り旅には観光の要素も加味されていました。空港から大連市内に入りHOTELへのコースもヤマトホテルや関東軍司令部のあった中山広場(旧スターリン広場)を巡って新築の高層ホテル:富麗華飯店にチェックイン・14階のハーバービュウルームに入室しました。翌朝は最上階の宮殿式レストランで中華全席風朝粥を賞味したあと迎えのバスで市内観光に出ました。現地ガイドの高(ガオ)さんの「アマから飛び降りた感じでしょう?」に一同「?」
自慢の高層ホテルから地上に降り立った我々に「天から・・・・」と言うつもりだったと判り拍手。私が3歳の折、日本から最初に接岸した大埠頭の正面階段は丸型から角型に改装され、イメージが変わって落胆しました。軍港旅順に至る臨海道路の中間点の景勝「星ケ浦」は労働公園とそれらしい名になり当時の雰囲気は霧消していました。

 翌朝 大連駅で再会を約した交里さんに見送られて,特快「遼東半島号」で沈陽へ出発。半世紀前満鉄の誇る特急「あじあ」号が疾走した線路を北上しました。朝食は食堂車に案内されましたが厨房を覗くと高熱を必要とする中華料理はコークスを燃料とする原始的な火鍋で驚きました。供された白飯は石の混入が多く歯が欠けそうでしたが、高ガイド曰く「石のほうが重いからネ」と名答でした。客車は2等車格の軟座車でしたが厠の横の洗面所には、魔法瓶が数本置かれ湯茶が入れてあり乗客は持参した蓋つきの空き瓶に注いで席に運ぶ風景に彼我の交錯を思いました。遠足で来た河の鉄橋を渡り、沈陽火車場(駅)に到着。
ホームには2年後輩の孫春栄さんと、なんと北京からはVIPが迎えに来ていて驚きました。清朝のラストエンペラー溥儀の甥 愛新覚羅連賛君の笑顔が見られたのです。奉天一中の同期生S君とT君の電話で天安門の中から同時に里帰りした訳でした。その日の宿舎は北陵に近い新築のホテルで立地は清朝の始祖ヌルハチの陵の南側で将来の発展に敏感な意が伺えました。夜のウェルカムパーテイは沈陽市長の後援で北陵友誼餐庁の円卓に招待されました。チャイナドレスのウエイトレスが形のよい脚で裾を捌きながら料理を運んで来ました。前菜のオードブルに続いて何やら正体不明の塊りが黄色い皿にサービスされました。ウエイターの説明で、これぞ「熊のテノヒラ」と判りましたが私も初対面でした。

 次の日は主目的の育才学校への再訪日です。この年の春、在日の卒業生の募金に依って克っての母校に記念の時計塔が贈呈され、既に時を刻んでいたのです。最新の日本製ソーラー電池時計で晴天に蓄電されてメンテナンス不要のすぐれものでした。正確に作動中で贈った趣旨のプレートを正式に取り付けました。歓迎のセレモニー・タレント優待生の演技も3年前より進歩は明らかでした。それに嬉しかったのは愛新覚羅(金)君が総合通訳を引き受けてくれていたことでした。さすが帝王学の一つとして日本人教師から上流階級の日本語の個人授業を習得しただけに、文法、敬語、発音とも満点で我々も驚かされました。校庭に出てのフリートークの最中に日本語科の在校生のインタビューを受けました。私は「日本の小・中学の生徒は親に言えば何でも欲しい物が手に入るので他人への思いやりが非常に欠けてきているのが心配だ」と答えました。今回も家庭科に学ぶ生徒達が調理教室で手作りの味も心も暖かい料理を呈してくれましたが、女生徒ばかりでしたのでワイフの中国服が大層気になったようでした。やはり通訳で参加していた孫春栄さんの娘・劉歌蘭さんは中央大学に留学、日本で就職、結婚して苗字も変わり二児のマーマで活躍中。

 北陵の東・6kmほどに二代皇帝ホンタイジの東陵が築かれています。金連賛君の案内で訪れましたが、入場券は彼が求めました。「先祖の墓参にお金を払ったのは初めてですヨ」と笑っていました。こちらも古城のように広大な敷地に松の大木が並び、静寂のなか栗鼠たちが忙しく走っているだけでした。 この旅の出会いでワイフも連賛君と知人になり、後年日本に長期滞在した彼を我がミニ宮殿に招待する機会を得ました。

 日程も少なくなり私達は鉄路で大連に南下、孫交里教授の自宅に招待され積もる話と手作りの料理の歓待を受けました。ご主人は共産党の軍人で入党しないと出世が約束されないと複雑な背景が想像されました。愛嬢清々のためにピアノも黒く光って置かれていましたが、その横に交里さんが日本語講座を熱心に学んだ短波ラヂオが恥ずかしそうに座っていました。内地では手に入らない中国産の小麦粉で交里さんが練り上げた饅頭と、上海蟹の海鮮料理を膳立てて呉れたのですが次のようなコメントがありました。
「本物の上海カニですが食べて体調が悪くなったら言って下さい。
最近購入した自家用車で病院に行きます!」
次の日空港へも愛児・清々と送ってくれました。この時小学生だった清々も今は(2007)日本に留学し、交里さんとはメル友で交信しています。

 今号も幼年期の10年余を過ごした中国・東北地区・遼寧省の旅/再訪編ですが異国の街、まだ存在する煉瓦造りの母校、大変身中の瀋陽市街地、でも不思議な縁と出会いで紡がれた地図のような得難い、忘れ得ない人々の「輪」です。




左:大連海鮮レストラン・・・素晴らしい屏風や喜の字の模様が美しい
右:清朝始祖ヌルハチ陵にて・・西太后の扮装で

下:フラマホテルロビーにて 孫交里さんと