のっけから醍醐味と言っても、どんな味なのか理解頂けない若い人たちもいるでしょう。
仏典の最上の教えより出來した語彙だから「上等の美味」と解してください。もちろん食べ物に限らず、私の場合 未知の国・人間・出来事・感性や歴史に触れる機会の魅力あふれる味なのです。
 

 中国から太平洋戦の終盤に帰国、韮中・新制韮高を卒業、成人して間もなく上京。
就職してからは日曜だけが休日でした。修学旅行で京都・大阪に行った位で、会社の慰安旅行は箱根、日光、金沢止まり、寝台特急が関の山。
 その後昭和時代の中頃、幾十万もの偶然の条件を乗り越えて赤い糸の端を結び合ったBetter Half と、友人の好意で そのころ珍しかった自家用車の提供を受けハネムーンに出発。軽井沢の万平HOTELに一週間、3箇所にチェックイン。連泊中バスルームで写したワイフの後姿が現像ラボで没収されるような時代背景でした。
 会社勤務に戻ってやっと祭日も休める社会環境になったころでしたが、あの重量のある機体が空中を支えもなく飛ぶのに不審を抱く社長のもと、海外旅行などに全く理解の無い上司の冷たい視線を感じながら、最初のチャンスが降って湧いたのです!
1974年11月、沖縄へのフライトです。


 この機会を幸運にも与えられたのは やっと日本の空をジェット機が運航されるようになったからです。 沖縄はまだアメリカの統治下におかれ、返還協定が進行中だったと思います。
悲願であった日本の翼が拘束をはずされ 日航機により復活し ヘリ運輸会社から全日空として国内線の旅客を乗せて定期便を運航する、準備期間だった頃です。
 そのキャンペーンのクイズに応募したら最高賞に選ばれたのです。まだ高層建築のNo1だった霞ケ関ビルの最上階に招待されました。
「おめでとうございます TOP賞です!」と挨拶され、確認をうながされました。選考資料の3組の中に私の名前が認められました。
 ☆東京←→那覇 往復搭乗券☆でした。希望の搭乗日・便名のリストを渡されて東京の一番高所から地上に降りました。
これが飛行機による初の海外旅行の体験となったのです。


 ハネムーンでも不可能だったジェット機でのフライト。
搭乗するのは羽田空港。 まだフィンガー・ゲートはなく、徒歩で機に掛けられたタラップに向かいました。
ブルーの機体 垂直尾翼にはダヴィンチの描いた螺旋形のイラストが印象的。 機種は「ボーイング727」 最多生産された名機でした。
タラップを昇り、スチュワーデイスの笑顔に案内されたシートは、主翼のやや前、右窓側で富士山ビユー。
 ヴェルトを締め、シート周りのスウイッチをチェック・・・・グランドのオレンジ色の作業服を着た誘導員が手旗でGOサイン。
ゆっくり機体がアプローチを走って滑走路の南端でUターン。
5秒後、ゴーッとエンジンの排気音が上がって、後ろから押されるように滑走がスタートしました。 
今までに想像もできなかったGに、体はバックシートに押さえ込まれました。
窓外の芝生のグランドが識別出来ない緑の奔流に見えた時、
グイと機首が上がってテイクOff、 そのままの加速で高度はぐんぐん上昇、東京湾の船の白い航跡が臨まれた空で右へ旋回、 三浦半島を眼下にしたとき、白と紺のコントラストの形よい富士が視界に鮮やかに認められた。
韮高に通学した六年間 朝に夕に一日として同じでなかった名山を見送ったころ、水平飛行になったと思う。
 まだパイロットは全部外人で、英語の挨拶があり、其の日の気象、飛行時間、到着地・那覇の天候・温度を伝えてくれる。
機内食は飲み物(コーク・ジュース)とサンドウイッチだったが、これを狙って便をチョイスした記憶がありますネ。
 2時間余のフライトで、高度が下がり エメラルドグリーンの海面に迎えられて 南からランデイング。 まだ軍用機と併用だったので、ボムバーやファイターなどが駐機している間をすり抜けるように 空港の建て屋横に到着。
タラップが擦り寄ってきて スチュワードが扉を開く。
11月なのに熱気を含んだ空気が、機内に吹き込み思わず眼を見張る。
これも初体験。


 ターミナルを出て、TAXIに乗り込む。
全く不案内なので、リザーヴしたHOTEL名をつげる。
「ワカリマシタ」 日本語が通じたが 何か変だ。
走りだして気が付いたのは、左ハンドルと右側通行。そしてオレンジ色の瓦と漆喰の接合材となにやら狛犬のような飾り瓦。
3`ほど北上して市街地に差し掛かったころ、運転席のラジオが日本語交ざりの外国語らしい事、「切手」とか「ハガキ」とかの単語しか聞き取れない オキナワ弁をきいた最初であるし、いまだに外国語である。
賑やかな商業地を走行中、 三越という看板を眼にしてホッとした。


 本土にも見られなかった高層の都HOTELにチェックイン。
守礼の門のすぐ横に建っていたこのHOTELの、窓からの夜景は素晴らしかった。
 翌朝のブレックファスト。
和食があったか記憶が無い。 
洋食のバイキングで、クロワッサン、ブリオシュ、バタロール
ペストリのブレッド ハム ベーコン ソーセイジにチーズ類 
レタス セロリ トメトの野菜 スクランブル フライドの卵コーナー  食後、これらの新鮮な野菜類は、(日本)本土からの輸入品と説明されて不思議な脈を感じた。


 とにかく未知の 琉球なる王国だった南国の島を肌で体験しようと、 ワイフとHOTELを後にし、TAXIで通過したメインストリート・国際通りへゆるやかな坂を歩き出した。 300b程はまばらな個人宅で、緑の畑も点在し、庭にもハイビスカスの花が咲いて南の色が鮮やかだった。本土なら晩秋だが、空も青く開放的な気分で散策する。 オキナワ銀座らしくなって商店もウィンドを連ねているが、どうも地方都市の雰囲気は拭えない。気が付けばやはり左側を歩いている。 宝石店でも鼈甲細工が目立つ。そして見事なロブスターの展示も。 和装店はもちろん 紅型染めが主流で、原色が滝のように縦に飾られている。
 中間点辺りに来たとき、左手に神社の参道みたいに日除けのテントを竿で突っ張った屋台の連なりが眼に入った。市場だと直感した。戦後のヤミ市を串刺しにして、ドカッと移したようだった。それもオキナワ銀座の真ん中が入り口なのである。 未知の場所で、その地の人達の生活に通じるには、一番効果的な見学である。 いくら歩いても飽きることは無い。 八百屋、果物屋、肉屋、魚屋、雑貨屋、駄菓子屋、衣料屋・・・食品から生活必需品まで、東京とは充分に異色の品物が、雑然と並べられている。 かぼちゃ、茄子、唐もろこしに並んで苦瓜(ゴーヤ)が山型に積んである。 成る程、レタス、セロリ、ブロッコリなど、サラダの主役は見当たらない。 肉類は豚肉が主流で、ブロックで野生的にぶら下がっている。 私達は一目でウチナンチュウ(沖縄人)ではないと識別されるので、ほとんど声も掛けられず、反対に観察されてしまう。

国際通りに戻って、三越デパートに入ってみた。
1階を回っただけで屋上のミニ動物園を覗く。
 「ゴールデンモンキー」と外人が呼んでいる小型の猿が、2bくらいのケージの中で木の枝に座り金髪を光らせていた。中国南西部の極く狭い地方にしか棲息しない「金糸猴」という珍獣で、私達も初めて目にした動物である。


 沖縄は戦争の暗い部分の印象が強い。
美しい海に囲まれていながら、老若男女島民の犠牲者数は、軍隊と同じくらいであったろう。軍司令部は、市の南の砂丘近くの地下壕にあり、米軍の攻撃に玉砕した。女学生達のひめゆり部隊の話も悲しく聞いた。
最南端の洞窟での集団自決も、マブニの丘の石碑に かぞえきれない数の名前が残されていた。 
 沖縄の地形は南北に長い。戦跡の連なる南端から西海岸に沿って バイパス道路が真っ直ぐに、北に通じている。
途中に広大な面積の嘉手納空軍基地が、我こそ主役と絶大なる存在感で、ジェットエンジンのオーケストラを奏でている。小高い丘に登って、「タッチ and Go」 を繰り返すファイターの飛行を複雑な感情の中で、しばし見続けた。 ふと1キロメータくらい離れて建つ、管制塔から睨まれているような気がした。今にも狙撃されるのではないかと丘を小走りに降りた。



 沖縄となれば どこまでも透明な海を見たかった。 11月でも泳ぐこと可能と知らされていたが、半信半疑であった。水着は一応持参。
まず知名度の高い 万座ビーチに行って見た。道路から近い断崖の上から、エメラルドの海を見下ろした。 少し波があって、打ち寄せて岩に砕け散る白い波が、かえって透明度を印象つけた。プライベイトビーチで二人だけ、貸切のような素晴らしい時間を過ごしながら、平和の永からんことを念じた。 透明度をもっと実感しようと、船底にガラスを張った グラスボートにも乗ってみた。基地の島であることを、暫し忘れることができた。


 私達は動物が好きであるので、機会があれば行動をともにしたい。小学生のころ親に閉め出され、やむなく飼い犬のシェパードのケージに泊めてもらった事実がある。 沖縄でも公園の中に日本猿の運動場があって、建物に近づいた。7〜8bほどの高さにいた一匹が するすると降りてきて、ごく自然にワイフに餌でもねだるポーズで金網から手を出し、髪を束ねて留めていた櫛をスッと抜いて木の枝にもどって The end。横に「ここの猿はメガネや櫛が大好きです 注意」とありました。
これも沖縄の思い出の一つです。


いずれにしてもこの 「☆TOP賞 沖縄往復搭乗券☆」 が海外自由勝手旅の原点であることは確かです。

(2006/9/10 韮高メルマガ掲載)


輪が 自由勝手旅の醍醐味
栗原 一 (高2)