輪が 自由勝手旅の醍醐味

第45回 
★ある運命的な出会いの思い出☆ 夢のように忘と定かでない時限です★ July/10/2010
2010/7/10号掲載  栗原 一 (高2回卒)


  

へーい まいどー 遠周軒でーす
 

 ハッキリしているのは病院内での思い出です。
奇縁としか申し上げる表現のほかは有りません。その方は“遠藤周作”先生。KO大学仏文学科在学中、フランスに留学。帰国してから本「白い人」を執筆・発表。芥川賞候補となり見事に選出されました。奥様は同じ資格でフランス留学されたメイトと後に紹介されました。ですから誕生されたご子息は迷わず“龍之介”と命名されたわけです。どのような性格に育って欲しかったか伺いましたら、「他人と逆の方角に迷わず進む強い意志の人間性」と即座に応答されました。
 そんな高名な先生と出会った場所は、「肺病」という同じ病いで入院した東京信濃町KO病院の結核病棟でした。もちろん先生は個室でしたが、隔離された5階の廊下は自由に歩けました。周知のように大層いたずらっ子的無邪気さを全身に培養されている方で、同棟の人気を集めておいででした。例外は婦長くらいでしようかね。フランス語も必須だったと思いますが、私の呼び方は“ムッシュ、マロン”でなく“栗ちゃん”でした。私も“遠藤さん”と普通でした。なにしろ周囲は先生とドクターばかりの大病院ですから。
 ある日、廊下で呼び止められ個室に戻りました。
「いま文芸春秋社から貰ったのだけど、なんだろう?」
見ると、紫檀を材として加工・磨いたペーパーナイフでした。
「封筒の口などを開けるおしゃれな道具です」遠藤さんはかくも純真な育ちのお人。したがって自他ともに認める機械オンチで、はばかりなく皆さんを魅了し続けました。勿論車の運転も奥様の担当で、その日は所用で見えた様子でした。帰られる時、遠藤さんは「君、車の鍵を置いていってくれないか。ちょっと使いたいのでね」受け取った鍵を私の目の前で振って見せました。その夜の行き先は、皇居を回って人形町でした。「ここの肉はうまいよ」とH山でご馳走になりました。何故に私が選ばれたかは、何となく予感はありました。二三度遠藤さんを含む複数の患者で千代田区近辺を流したことがあり、私も運転しましたから。
 入院して一年、ストマイの注射と投薬の効果が薄れて来た頃、手術の宣告がありました。当時アメリカ式の直接医術が光学医療機械の発達とともに先進のリーダーと認識されてきたのです。遠藤さんとは手術の日程が近かったので、この頃私にお声を掛けられたのでしょう。つまり胸部・部分手術の同期の関係になるわけです。術後も廊下でワイフに“栗ちゃん順調ですよ”そして遠藤さんの茶目っ気虫が動き出したのでしょう。レントゲン撮影の際に絆創膏で患部にマークをつけたりしました。私の手もとに数枚の証拠写真が残っています。披露しても多分許していただけるでしょう。
 この外科手術を受けたメンバーで退院後二,三回集まりました。遠藤さんも参加くださり“チャック会”と命名されたのです。無ろん遠藤さんが会長で、看護婦さんも一人含まれています。この原稿を校正している現時点でもおつきあいが続いている方もおいでで、幸運にも“栗ちゃん”はまだパソコンの前におります。有り難い環境の中に置かれた語りべとして、ワイフと共に生かされてきた幸せをしみじみ感じながら、おぼつかなくキーを拾っています。私達のような少し異端視されがちな夫婦を暖かく“輪”のなかに導かれたのも、遠藤“先生”がクリスチャンでおられたからと今さらに想うことしきりです。
 こんなお付き合いの経験を与えてくださったことを深く感謝してやみません。