輪が 自由勝手旅の醍醐味

第33回 
★忘れ得ない印度 そしてユニークなインドの人々・・・A
2009/5/10号掲載  栗原 一 (高2回卒)


Mr.スバッシュ ジャイン氏のレジデンス 2Fのゲストルーム前のソファでのショットです。
私達の両側に枕のようなクッションが有るでしょう? マハラジャの気分です。
ジャイン氏の椅子は螺鈿模様の入った輸入品です。
いつもカメラの方は見ません。私達より高くならないようにの配慮があるようです。



































  


  印度を自由勝手流に旅して忘れ得ない人物にMr.スバス・ジャイン氏を挙げます。インド東部バングラディシュ地方でこの国の民族衣装・サリーの織り元家系に産まれました。長じて同族の長女を夫人に迎えて首都デリーに進出。銀座のように認識されている、コンノット広場に店を構えました。銀行、外国支店、ホテル、各種名店に並んでジャイン氏の店は存在します。
渦のように駐車する多数の車輌に方角を見失いそうでした。デリーに入って4日目にこの中心地に出かけました。チェックインしたホテルに用事が生じて公衆電話を探しました。インド航空のオフィスで頼みましたが断られ、近くの郵便局に入り窓口の横に有った硬貨式の電話にコインを入れてダイヤルしましたが通じません。受話器をもどしてもコインは戻ってきません。再度トライしましたが同じです。窓口の局員はニヤリとするだけです。印度では相手に通じてから入れるのだそうです。処変われば品変わるとはこの事です。
 歩道の人の波に戻った時に「コンニチワ」と挨拶した少年と会いました。「君、日本語を?」「はい、話せます」「どうして僕たちを?」「昨日お店に来ましたね」「電話を探しているのだけど・・」「それならうちの店から掛けたらどうですか?」丸顔の店主は首を横に傾けてOK。親切な好意で用件は即解決です。昼食時間を過ぎたのでボスに近くに適当なインド料理の店の所在を尋ねました。すると意外な返事が戻ってきました。「私の弁当があるので食べて下さい」そして少年に何か命じました。少年も首を傾けて「アッチャ」と店を出て行きました。
オーナーボスのジャイン氏は私達を社長室に招き入れました。120aの高さの金庫が有り出土品らしい赤砂岩の彫刻や、印度の精密画、油絵、曼荼羅などが並んで架けられていました。店内とは違った雰囲気の室内だったのです。少年が箱を持って入室し、中からショートケーキとコーラとコップに入れた種らしきものを置いて行きました。ボスは此方の顔を見ながら布袋をテーブルの上に出し、中からアルミ製の三段重を取り出しました。直径15a深さ5aほどで吊り金具でロックされ、汁がこぼれない構造です。初めて実物を見ましたが印度では100年以上前から自宅と勤務先間の配達便が立派な職業として有ったそうです。絶対に間違えない誇りを自負して続いています。一段目にライスとナン、二段目にサラダとフルーツ、三段目にカレーが入っていました。興味も有って好意を頂きました。
 デザートの後、室内の絵画・彫刻・出土品等の説明を聞きジャイン氏が美術品にも詳しいのが解りました。ご馳走になり眼の保養もさせて貰ったので辞意を告げ店内に戻りました。改めて食事代くらいの品を求めるつもりだったのです。小さくて軽い袋物か、真鋳の置物とか・・・するとジャイン氏が店内の欲しい物をどれでも持って帰って不都合ないと言うのです。冗談じゃない、こちらは外見よりずっと貧乏だからと説明するとジャイン氏は「ノープロブレム(問題ない)」というのです。カードの無い時代で小額のドルを持っているだけの私達にどうしてこんな条件でOKなのか不思議です。そして電話番号だけ書いてくれればよいとの返事です。住所も確かめず私達が何者かも問わずにです。私達は驚いて「もし電話番号も名前も嘘だったら?如何するのですか?」と言いますと再び「ノープロブレム 貴方はそのような事が出来ない人です。顔を見れば解ります。また奥さんには多くの人が助けられていますよ」とジャイン氏は悠然と言いました。では返済の方法は?ジャイン氏はまたも「ノープロブレム、息子が日本に留学した時にでも返してもらいましょう」と言う訳で当方の証明は「電話番号」だけ!そこまで信用してくれるならと許容範囲内の選択をして約一千ドル(当時のレートで凡そ25万円)の借金をしました。コップに入っていた種らしき実は香料カルダモンで今も我が家の隠し味です。印度で大学卒のエリートの給料が一万円未満の頃の1000jは大金です。日本から印度へビジネスで飛ぶ双方の共通の知人に返金を委託する連絡も断って「ノープロブレム」でした。
それから二年以上経ったある日、子息ならぬジャイン氏夫妻が来日し日比谷のホテルから電話がありました。私達はすぐに駆けつけてささやかな昼食を共にして、丁重に返金したのでした。無論、無利息です。ポッキリです。なんとふところの大きな人でしょう。食後のお茶をすませて別れに際し「今度インドへ来る時はホテルではなく私の家に泊まりなさい」と言ってくれました。
 二回目の訪印のときはデリー・インデラ空港まで迎えに来てくれました。赤砂岩建築の自宅へ伺い家庭料理をご馳走になりましたが、そのときマダムと息子さん兄弟を紹介されました。恰幅のよい夫人と感じました。マダムは今思い出しても、何度か会っても一度も笑顔に接したことが有りません。まして初対面で宿泊など思いも寄りませんし、ホテルの方が自由でくつろげます。ジャイン氏の気持ちだけは有難く頂きました。マダムは私達に話しかけてきたことが一度も無いのですが少しの英会話は出来る筈だと思います。ですから夫人と三人の席は気まずいのです。ジャイン氏が同席の時は小声で話していますが多分ベンガル地方の言語でしょう。宮殿と同じ重厚な赤砂岩の立派な三階建てのレジデンス、日本製の自家用車、美術画廊のような複数の店、二人の息子、印度ではかなりリッチな富裕層のマダムなのに、何故かいつも寂しそうなのが不思議でなりませんでした。以来インドへ行くこと5回におよび、行くたびに会う機会を愉しんでいます。
 この素晴らしい醍醐味を知る結びの少年はイスラム系の印度人で日本とも縁が濃くなりましたが機会を見て紹介しましょう。



立派な螺鈿の衝立前のファミリィです。自宅のギャラリィでのショットのようです。
珍しくマダムの表情がゆるんでいるのは撮影者が身内の人だったのでしょう。