韮山高校の歴史とその周辺 第9話 

 剣術家(?)坦庵公の腕前
  
-桂小五郎とのつながり-

       桜井祥行(高32)

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 坦庵は17歳の時に江戸の神道無念流岡田十松撃剣館に入門して剣術を習いました。そこで坦庵に稽古をつけたのが、後に家臣(江戸詰書役)となる齋藤弥九郎でした。
 しかし岡田十松が2年後に亡くなったため、齋藤弥九郎が師範代となり、やがて練兵館として道場を独立します。このあたりの援助は坦庵が行いました。

 当時の江戸の三大道場といえば、赤銅鈴之助が登場してくる千葉周作玄武館と、桃井春蔵の士学館、そしてこの練兵館でした。それぞれ「技の千葉」、「位の桃井」、「力の齋藤」と称されていました。最近テレビ等でクローズアップされている坂本龍馬は千葉周作の弟の千葉定吉が経営する道場(北辰一刀流)で剣術を磨いております。
 なお練兵館のあった場所は、九段坂上すなわち靖国神社境内にあったということです。
 
 桂小五郎木戸孝允)もこの練兵館で腕を磨き、5年間(1853〜’58)塾頭でもあったことから、相当な剣術の腕前であったようです。
 坦庵と桂小五郎のつながりはこの練兵館が縁となり、小五郎は、師匠の斎藤弥九郎に積極的に願い出て、弥九郎の兵学の師である坦庵の弟子となりました。小五郎はペリー来航後、坦庵から単に小銃術・西洋砲術など近代西洋兵学を学ぶだけでは飽き足らず、この台場築造の実際を見る機を捉えて、積極的に坦庵に願い出て、坦庵の付き人として一般人が立ち入ることを許されなかった江戸湾の軍事要衝地における台場築造工事を視察しています。

 長州藩では練兵館のレベルの高さを認め、その後高杉晋作をはじめ続々と藩士たちを習わせました。江川家長州藩のつながりもこのあたりにもみえてきます。
 さて、坦庵の剣術レベルですが、入門2年後には免許皆伝の許可を受け、撃剣館四天王の一人に挙げられたくらいですから、かなりの腕前であったことは確かです。文武両道を自らが実践していたわけです。
 韮山高校剣道部を直接開いたのは坦庵でも弥九郎でもありませんが、その精神は貫かれているのではないでしょうか。

 最後に、坦庵と弥九郎は後に変装して甲州微行を行います。刀剣行商人に扮する隠密剣士として甲州地方視察をしたのでした。この様子はまた改めて紹介したいと思います。

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