韮山高校の歴史とその周辺 第8話

 坦庵の父、江川英毅


      桜井祥行(高32)

 江川家第35代の当主は、坦庵の父である江川英毅(ひでたけ)です。
坦庵には息子である英武もいるので、呼び名として英毅のことをえいきと呼んで区別したりします。
 
 英毅は明和7(1770)年に生まれ、寛政4(1792)年に代官職に就いているので、時代で言えば松平定信が寛政の改革を行っている頃になります。
 
 その松平定信が寛政5年に伊豆巡検に来た折に、画家の谷文兆を同行します。その時の作品が「久余探勝図」で、そこから江戸時代の伊豆の各地の風景を知ることができます。英毅は谷文兆から絵の手ほどきを受け、これが坦庵に引き継がれていきます。谷文兆は韮山屋敷に逗留して坦庵に教えたと言われています。
  
 英毅が代官としての実績を積み上げていく過程は、その父親の英征の放漫財政の建て直しに始まり、そのために管轄下の新田開発や、河川・道路の改修といった土木工事を矢継ぎばやにおこなっていったことにあります。
 
 さらにその上で、英毅は学問への関心が高く、杉田玄白大田南畝山東京伝伊能忠敬間宮林蔵といった歴史の教科書に出てくるような人物との交流を深めました。伊能忠敬や間宮林蔵との交流は、海防思想の構築となり、坦庵に受け継がれていくことになりました。
 
 また地元伊豆では、修善寺熊坂の国学者竹村茂雄との交流から国学や歌への関心を示し、竹村に狩野川の鯉の放流を許可したり、漢学者秋山富南から伊豆地誌編さんの必要性を聞き、それを許可しました。今日江戸時代後期の伊豆半島の様子を知ることのできる『豆州志稿』はこのようにして編さんされました。
 
 こうした種々の政策が実り、英毅の支配地は代官就任時には5万余石ほどであったものが、7万石を超えるまでになり、民生安定化に努めました。
 
 英毅は42年間代官職を勤め、天保5(1834)年に亡くなりました。
 名代官であった英毅の存在があったからこそ、坦庵は父親以上の名を博することができたと思われます。
 
 現在江川邸横の韮山郷土史料館では、英毅に関する企画展示(英毅〜名代官江川英龍の父〜)を行なっています。是非この機会に足を運んでみたらいかがでしょうか。


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