韮山高校の歴史とその周辺 第7話 

 韮山塾と調練場


      桜井祥行(高32)


 江川坦庵公は、高島秋帆のもとで免許皆伝を受け、砲術必要性を説きました。これは渡辺崋山の紹介によるもので、当時長崎にいた高島秋帆はアヘン戦争で清国が敗北した事実を知り、長崎奉行所に国防の意見書を出しておりました。

 この高島秋帆の洋式会場砲術演習が展開されたのは、1841(天保12)年のことで、徳丸原(現在の東京板橋区)を会場としました。その凄まじい野戦砲を見た幕閣たちは驚きを隠せず大好評を博し、すぐに坦庵公は門人となりました。

 しかしながら、幕府側の抵抗勢力である鳥居耀蔵は蛮社の獄と同様に策略をめぐらして、高島秋帆を獄中に入れてしまいました。

 秋帆が獄中に坦庵は韮山塾を開塾します。韮山の江川邸の北東に位置する部屋が塾の間と呼ばれるところで、18畳ほどの広さがあてがわれ、多くの門人たちがそこで学びました。
 
 砲術
演習として韮山城三の丸(現韮山高校山上テニスコート)が利用され、坦庵公は雷管銃の製作に乗り出し、韮山製小銃として各方面からの注文に応じ、門人たちもその練習に余念がありませんでした。さらに秋帆が訓練の号令をオランダ語で行っていたことに対して、これを翻訳して号令することを考案しました。
 
 例えばそれは、「担エ、銃(ツツ)」という号令であり、さらには「右向け、右」や「気を付け、前へ習え」「廻れ右」「前へ進め」といった、今日の集会や体操時の集合時の用語となりました。相原修氏の『蘭学者石井修三の生涯』には坦庵公家臣の石井修三翻訳したことが書かれています。
 
 こうして韮山塾で学んだ門人たちは国内各地で西洋砲術を広め、かつ号令方式を広めていきました。坦庵の生存中は農兵制が幕府に採用されませんでしたが、その子の英敏の時に建議が採用され、やがてそれは長州藩でいち早く取り入れられ、高杉晋作から大村益次郎山縣有朋へ受け継がれて陸軍基礎となっていきました。
 
 一方の海軍は今話題の坂本竜馬たちが先導した長崎海軍伝習所が基礎となっていきました。これにも実は石井修三は参加しています。

 志半ばで倒れた坦庵公も、その先見の明はしっかりと受け継がれていったことがわかります。
 

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