韮山高校の歴史とその周辺 第6話

 江川家と江川町


        桜井祥行(高32)

 
 静岡市に勤務されている方やあるいは買い物に行かれた方で、江川町という呼び名を聞かれた方もいらっしゃると思います。JR静岡駅から地下道を通り、北に向って20〜30mほど歩いたあたりになります。現在は江川町通りとか江川町交差点といった呼び名が残っています。

 この江川という地名と韮山代官江川氏との関係はどうなのか調べてみると、まさしく江川家の土地であることがわかりました。「駿府江川ト申処ハ拝領屋敷跡ニ御座候…」とあります。

 時代は戦国時代末期に遡りますが、江川家一族の多くは後北条家に仕えていました。ただしその中で第27代の江川英吉と第28代の英長は徳川家康に仕えていたのです。有名な豊臣秀吉による小田原征伐の時に、江川英長は家康の命を受けて、後北条との間の和議を進めました。この労により家康は英長は駿府の屋敷地を与えたのでした。
 
 しかしながら、一族の多くが後北条に仕えていたことから、後北条の家臣の恨みを買うことになり、この駿府の屋敷地は召し上げられてしまいます。よってこの屋敷地は一時的な江川の土地にすぎなかったわけですが、地名として江川町として残り、今日に至っています。坦庵公は第36代になりますから、その8代前の時代ということになります。

 こうした江川町の由来の背景には、江川家が後北条家への忠誠から徳川家への忠誠に変わったことがわかります。幕末にはさらに徳川家から明治政府への忠誠に変わり、今日までお家断絶とならずに脈々とその家系を保ってきました。

 江川英長は家康に対して、江川酒を献上していますが、江川酒は第15代の江川英治の頃からつくってきましたが、この時は北条時頼に献上していますので鎌倉時代ということになります。その後も北条早雲に献上したり、主君との間の潤滑油ともなるべき品となっていたこともわかります。今日江川酒が再び製造されて販売されていますが、是非一飲してみたらいかがでしょうか。


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