韮山高校の歴史とその周辺 第5話

 坦庵公嫡子、江川英敏のこと


        桜井祥行(高32)

 江川家第37代当主であった江川英敏は、その在任期間が短かったためかあまり知られていない存在です。
 坦庵公が亡くなられた1855(安政2)年に家督を継ぎますが、1862(文久2)年に早逝します。1839(天保10)年の生まれですから23年間の生涯でした。このため代官在任は7年あまりでしたのでめぼしい業績は少ないのですが、実は反射炉は英敏の時に完成しています。
 反射炉といえば坦庵の代名詞のように思われていますが、実はこの建設中に坦庵は亡くなっているので、完成をみたのは英敏の時になります。英敏は坦庵没後すぐに品川大場備砲上覧試射を指揮しています。18ポンド砲が反射炉で試作されたのは1858(安政5)年の3月のことになります。
また農兵について動きがみられるのも英敏の時になります。現在三島市役所前に農兵調練場の跡地の記念碑が建てられていますが、この農兵に実は英敏に大きく関係しています。1860(文久元)年に英敏は治安維持のためにも「農兵御取立に付申上候書付」を幕府に提出して、農兵の必要性を説いているのです。英龍の時代はまだ刀狩令の兵農分離の観念にしばられていたこともありましたが、時流にのってその必要性は理解されるようになっていたものと思われます。
  さかのぼれば1850(嘉永3)年に伊東玄朴により英敏は種痘を接種され、成功しました。我が子への種痘といえばジェンナーを想起させますが、坦庵は我が子である長男、長女へ接種させています。そしてこの成功をもとに坦庵は「西洋種痘法の告諭」を支配下に達して種痘を実施しました。蛇足ながら伊東玄朴たちはその後神田お玉ケ池に種痘所を設置し、これがその後の東京大学医学部に発展しています。
 しかしながら1862(文久2)年8月に英敏は急逝し、弟の英武が代官に就任していきます。知名度こそ低いかもしれませんが、英敏も坦庵公の意志はしっかりと受け継ぎ、次の英武へ確実にバトンタッチをしたといえます。

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