韮山高校の歴史とその周辺 
第29話

坦庵公命日
      
桜井祥行(高32)





 江川坦庵公が亡くなられて160年近くたちます。亡くなられたのは安政2(1855)年1月16のことです。しかしこれは旧暦ですので、新暦では3月4日となります。この頃は高校入試の頃ですから、大変冷え込む時期です。

 若い頃から剣道をはじめとして、山猟など猛訓練をして体を鍛えてきたのですが、何しろこの時期あまりにハードスケジュールでした。ペリー来航はこれより1年半ほど前になりますが、かねてから海防について幕府に建議していましたので、すぐに勘定吟味役に引き立てられ、幕府政治に参画するように要請されます。

 そこで江戸と韮山を行ったり来たりしますが、翌年1月再びペリーが来航します。あまりの多忙で3月には江戸城で頭痛に襲われ、その月は病臥しています。5月にも同様の症状がみられ、そんな中で今度はロシアからプチャーチンが来航します。

 ところがその年の11月に安政の大地震が起き、プチャーチンの乗るディアナ号は船底を大破します。修理のため戸田へ出帆している途中富士で座礁し、今度はロシア船建造ということになりました。

 これら陣頭指揮やら調査やらで下田へ行ったり戸田へ行ったりするわけです。さすがに12月には風邪でダウンしてしまいます。かなり重症なのですが、その状況を幕府は知ってかしらずか、江戸へ来るようにとの連絡が入り、生真面目な坦庵は出かけるのです。

 家臣が止めるのもきかず韮山を出発しますが、当然のことながら小田原で風邪が悪化し、江戸に着くや寝たきりとなりました。

 体が弱まっている時の風邪ですから、おそらく今でいうインフルエンザに近い症状で、肺炎も併発したようです。こうした中で坦庵公は正月を超えて亡くなられました。

 時の筆頭老中であった阿部正弘は大変悲嘆し、次の歌を詠みます。

  空蝉は限りこそあれ真心にたてし勲は世々に朽せし

 坦庵の柩は25日に到着し、菩提寺の本立寺に葬られたのでした。

 小生が在学中は、1月16日近辺のLHRの授業中にお墓参りに行った記憶がありますが、最近は1年生の春の遠足の時にお墓参りをしているようです。

 改めて坦庵公に合掌です。

 


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