韮山高校の歴史とその周辺
第27話


労作教育
      
桜井祥行(高32)


野球スタンドから龍城山への階段

 

 

 龍城山への登り口はだいたい3か所あります。それはグランド野球バックネット裏から登る所と城池から登る所、そして部室横から山上コートへ登る所があります。

 これらはいつ頃からできたのでしょうか。後北条氏(北条早雲)の時代からと思っている方もあろうかと思いますが、実際に整備されたのは昭和ひとケタの時代です。それはこの時期労作教育というものが全国的に推奨されており、当時の旧制韮山中学生もその担い手でした。

 昭和6年の中学校令施行規則改正により作業科が設置され、勤労体験学習が課せられることになりました。県下では既に見付中学校(現磐田南高校)や榛原中学校(現榛原高校)で行われておりましたが、昭和7年に赴任した山本幸雄校長が労作(作業)教育を全面的に掲げて始められたのです。

 昭和8年からはスタンドの造成が行われ、熊野神社や山上コートへの階段造りが行われました。例年このスタンドで歌唱指導が行われていると思いますが、スタンドコンクリート打ちもこの時行われたもので、まさしく勤労体験の賜物でした。昭和12年には反射炉の奥の開墾も行われ、これは戦時にも継続されていきます。

 当時とある県会議員が先の榛原中学校を視察し、労作教育を激賞しているのですが、本来の公立中学校は学業が主であることを述べる者もおり、これを巡って新聞紙上では論戦になったようでした。ちなみにこの時期に西浦の久連の地でデンマーク教育を基にした興農学園が設立されています。全国の青少年たちが農業教育を中心とした共同生活をおくったということですが、労作教育に繋がる面もありました。

 ともあれ、80年前にスタンドや階段ができたということを知っていただければと思います。


(注)労作教育は20世紀の初頭に、ドイツの教育改革運動の中で、19世紀末までの範例的で書物中心の教え込み教育への反動として、ゲオルグ・ケルシェンシュタイナーらが提唱した労作学校の概念から生まれてきたものです。知識注入型から問題解決型(ゆとり教育)へシフトした10数年前に何となく似ていますね。


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