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今年も1月19、20日と韮山時代劇場広場を中心に「パン祖パン祭」が開催されました。江川坦庵公は兵糧・備蓄のためにパン食を採用されたわけですが、実は江戸時代に長崎出島ではパン製造は行われておりました。江戸時代の書物にパン製法を書いたものがあり、鉄砲で有名な高島秋帆も備荒食糧としてパン製造を推奨しています。さらに古くは江戸時代末期の戦国大名の中にもパンを兵糧にと考えていた大名もおりました。 それがなぜ坦庵をもって全国パン協議会は「パン祖」の称号を贈ったのでしょうか。 当初は塩のみで味付けして乾燥させた乾パンが中心でしたので、あの固く噛むと歯が折れそうなパンというイメージを持ってしまうのですが、実はこればかりではなく、砂糖や卵で味付けした、昔でいう甘食に似たようなパンを製造しておりました。かならずしも固いパンばかりではなかったのです。 このおかげでこれまで握飯の重くて腐敗しやすかった兵糧が、軽くて長持ちするというパンに代わり、飢饉にも大きな恩恵をもたらすことになりました。 江川邸には鉄製の円盤が残されていますが、これはパンを焼く鉄板かと思われます。つまり韮山でもパン製造は行われたのです。このため邸内には徳富蘇峰により書かれた「パン祖江川坦庵先生邸」の碑が建てられております。 記録によれば160年ほど前の江戸末期に、ロシアのプチャーチンが率いたディアナ号が破船したため、戸田で新たな船を建造していた時に、坦庵はロシア人の食糧が米食ばかりではつらかろうと、パンの原料の小麦粉を送っています。 小生は高校時代、部活動帰りに「金さん」のパンのお世話になりました。いつもパンとチェリオ(時にセブンアップ)を飲んで帰りましたが、最近は志龍講堂内でパンが製造・販売されているとのこと。時代の流れとともに今の生徒たちが羨ましいかぎりです。 |