伊勢新九郎盛時こと北条早雲が、1495年(明応4)に伊豆国を平定して韮山の地に城を築きました。これが龍城山にある韮山城にあたります。
以前は北条早雲は、伊勢の素浪人から戦国の下剋上の時代にのし上がった傑物という評価をしていたようでしたが、近年の研究から備中国(岡山県)出身の幕府政所の執事という高い家柄にあったことがわかってきました。要するに幕府高級官僚といったところでしょうか。
1498年(明応7)に、早雲は堀越公方の足利茶々丸を甲斐国(山梨県)に追いつめて自害させ、晴れて伊豆国の主となり、韮山城の権現曲輪に熊野権現を勧請し、築城を完成させます。龍城山の階段を登って右に曲がった所にある神社がそれです。
階段を登って左は三ノ丸といって今日のテニスコートですが、幕末は江川坦庵が農兵調練場に使用し、明治時代初期は校舎があったところですので、広い敷地となっています。
再び権現神社に戻ると、そこから7〜8m高い位置にあるのが二ノ丸です。本丸まで登りますとさすがに景色もよく、遠くを見渡せます。標高50mほどの高さですが、ここを起点に清水町の戸倉城、沼津の興国寺城と直線で繋がり、当時は烽火を合図に連絡したのではなかったでしょうか。
早雲は本丸にいたわけではなく、現在の校舎あたりの「御座敷」と呼ばれる所を居館として息子のいる小田原城と連絡をとりあっていたのでしょう。
1590年(天正18)に豊臣秀吉は22万という大軍を率いて小田原城に向かいます。難攻不落といわれた小田原城は半日で落城してしまいますが、韮山城はなかなか落ちず北条の兵士たちは3か月も籠城したといいます。城主北条氏親が徳川家康の説得を受入れて和平に動き、開城するわけですが、さすがに早雲の築城した城でした。
歴史は古き韮山城の話でした。
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