韮山高校の歴史とその周辺 第21話

 

韮山高校創立者柏木忠俊先生のこと

       桜井祥行(高32)





 韮山高校の創立者は江川坦庵公と思われている方が、卒業生の中にも多く、柏木忠俊先生の名前がなかなか出てこないのが残念です。韮山高校が明治5年の学制発布により、教員養成校として創立したのは明治6年(1873)のことです。坦庵公はこれより先の安政2年(1855)に亡くなっておりますので、韮山高校の創立とは20年近く離れています。

 ではなぜ坦庵公が創立者のように扱われているのかというと、建学の精神「忍」の体現者であるからかと思います。そしてまた、子息江川英武が韮山高校の前身の伊豆学校の校長に就任し、父親坦庵公を称えてきたことにも端を発するかと思います。

  では、柏木忠俊先生(182478)はどのような方だったのでしょうか。
 通称総蔵。坦庵公の手代として少年時代から江川家の秘書として活躍し、坦庵公亡き後は嫡子江川英敏・英武を支えました。幕末期には江戸屋敷のあった芝新銭座の建物を福沢諭吉に払い下げたことで、これが慶應義塾の校舎となりましたが、この手配は柏木先生によるものでした。
 慶応
(1868)年戊辰戦争が始まるや英武を助けて奔走、新政府から韮山県として認められ英武を知県事(知事)とし、自らは徴士として会計官に出仕します。そして英武の補佐役として韮山県大参事となります。
 1871年韮山県廃止後、足柄県が設置されると同県権令となり、翌年県令となりました。足柄県は小田原以西と伊豆半島を含む県で、ここの県令時代には学制に対応し、翌年教員養成所として仮研究所・韮山講習所(現韮山高校)を創立しました。さらに小田原英語学校を創設し、後に英学者となった仁田村の仁田桂次郎はここで学びました。金融面では伊豆生産会社(後の伊豆銀行、静岡銀行)を創設させ、生糸や牧畜中心とした殖産興業を起こし、伊豆全域の発展に尽力しました。
 足柄県は5年あまりで幕を閉じますが、柏木治世の素晴らしさを感じた小田原住民たちは大変残念がります。このことが後に足柄県再置運動や伊豆国神奈川県管轄替運動につながっていきます。

 柏木先生は明治11年に亡くなられましたが、もっともっと評価されるべき方ではなかろうかと思います。柏木先生の墓と顕彰碑は本立寺にあります。
 
 
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