韮山高校の歴史とその周辺 第20話 

 文武両道精神は大正時代に確立

       
桜井祥行(高32)

堀捨次郎先生
 6月になりますと、高校総体県大会が終わり、勝ち抜いた者により東海大会に場所が移されます。そして8月の高校総体(インターハイ)が待っています。野球部は7月からの県予選があり、同じく8月に夏の甲子園大会があります。今年も陸上をはじめ様々な競技分野で龍城健児が活躍しました。

 本校では明治後期の旧制韭山中学校2代校長の箕田申之の時に、スポーツ振興がされたことは第18話でお伝えしたところですが、大正時代に文武両道とりわけ武道を中心としたスポーツが盛んになります。この理由は大正時代に第一次世界大戦があったためで、戦場は主にヨーロッパでしたが、今後の日本の軍隊にとって強靭な肉体をもつ兵士育成が必要とされ、この時代学校教育で柔道・剣道をはじめ、女子の薙刀等が奨励されました。

 本年度から中学校では柔道授業が必須化されていますが、当然ながら当時は柔道か剣道が選択必須科目でした。そうした背景があり、本校は大正10・11年と剣道部は県大会を連覇し、大正12年には柔道部が県大会を制覇し、旧制韮山中学校の名を県下に轟かせます。

 学校行事として第1回の長距離競争(マラソン大会)が大正3年に始まり、本校から三島大社までを生徒たちは走りました。この頃から体育大会や遠足(これは遠足大運動会と言いました)が実施されるようになります。水泳も大正8年から競泳化されるようになり、どの種目も競い合うようになります。

 一方では、大正デモクラシーとともに、芸術とりわけ美術教育が花開きます。
 明治30年(1897)に本校に着任した美術教師の彦坂繁三郎は、写生を中心とした絵画指導を行いました。彼の門下生たち、すなわち澤田政廣をはじめ、柏木俊一野口三四郎栗原忠二等そうそうたる芸術家たちが巣立っていきましたが、文武両道の気風の中で芸術分野も育てていたことを忘れてはならないでしょう。
 もっとも文武の文の面では、東京帝国大学を卒業した著名な漢学者である堀捨次郎先生が大正時代に本校で教えていたことも忘れてはならないでしょう。
 
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