韮山高校の歴史とその周辺 第2話
10月24日(日)〜11月8日(日)に行われる国民文化祭に合わせ、韮山高校 志龍講堂でも、資料室や図書館などに保存されていた明治初期の貴重な資料を展示いたします。今年7月、資料室の野中先生(高18)と桜井先生の間で持ち上がった企画が、河野元校長(高16)をはじめ 多くの同窓生、関係者のご尽力で実現しようとしています。
 坦庵と韮山高校

          桜井祥行(高32)

江川坦庵と韮山高校の関係は、韮山高校が坦庵を学祖として仰いでいるだけで、学校の創設者ではありません。
創設者は坦庵の手代で足柄県令であった柏木忠俊です。

 ただ、坦庵が座右の銘としていた「」は、韮山高校の校訓として今日に至っています。また砲術訓練施設として設けられた韮山塾には、全国から塾生たちが集り、江川邸玄関横の塾の間で講義が行われました。ここで教えを受けた者は、その後 海軍伝習生として長崎に移って幕府海軍の中心となったり、維新後の先導役として活躍していきました。

 さて、柏木忠俊は1872(明治5)年の学制施行を受けて、翌年教育養成のために仮研究所を設置しました。これが韮山高校の始まりとなるわけです。柏木忠俊は坦庵の嫡子である江川英武が維新後に韮山県知県事となった際に、彼を補佐し、英武が岩倉使節団の一人として渡米した後は、足柄県令として善政を行いました。

 仮研究所は江川邸近くにある坦庵のお墓がある本立寺で講義が行われましたが、翌年には韮山城三の丸跡(現山上テニスコート)に校舎を新築し韮山講習所として発展します。

 1876(明治9)年、足柄県が静岡県に編入後数年して柏木忠俊は亡くなり、坦庵嫡子の英武が帰国します。韮山講習所以後校名を変更しながらも学校は存続し、町村立伊豆学校の時に英武は校長として赴任します。

 ところが1886(明治19)年の中学校令で各地の県立中学校は1校となったため、町村立伊豆学校は廃校の危機に直面し、危機打開のために私立伊豆学校がここに誕生します。この時、英武自ら教壇に立ち、アメリカ帰りの英語を披露し、一躍伊豆学校は生徒急増期を迎えます。この時に学んだ生徒たちはその後県内外の政財界の中心となっていくわけです。

 坦庵の精神は、家臣の柏木忠俊に引き継がれ、さらに嫡子英武につながり、今日の韮山高校の礎となっていきました。

 伊豆学校廃校後は再び組合立で維持され、1898(明治31)年に念願の県立韮山中学校となり、今日の韮山高校に繋がっていくのです。

 今年の10〜11月にかけて静岡県で国民文化祭が開催されます。韮山高校の所在する伊豆の国市では坦庵をテーマに掲げており、韮山高校でも坦庵の精神に基づき、柏木忠俊英武の3人にスポットをあてて、龍講堂を会場に展示を企画いたします。

 是非、足を運んでいただき、開学時の精神、息吹を感じ取っていただきたいと思います。

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