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校歌を作詞するにあたり大正8年(1919)に、韮山中学校学友会では、校歌の懸賞募集を行いました。ところが、すぐに校歌ができたわけではなく、できたのは6年後の大正14年(1925)のことでした。 大正8年の段階では、穂積先生はまだ大学生でした。大学を卒業後、長野県にある松本高等女学校で教鞭をとった後、三島高等女学校(現三島北高校)に赴任しました。 学校として校歌懸賞の募集をしたわけですが、応募作品が少なかったのか、学校側の意図するものではなかったのかわかりませんが、大正14年の12月に創立30周年を予定しており、学校としては新たな校歌制定を考えていたものと思います。 紆余曲折の末、その栄誉に与ったのは、当時三島高等女学校で教鞭をとりながらも、新進気鋭の歌人として知られていた穂積先生でした。作曲は佐々木英先生が行い、大正14年に無事、今日歌われている校歌ができました。 空を仰げば魂ゆらぎ 地を踏みゆけば肉躍る 歴史は古き韮山の 男子の気噴吹き明れ 勁くますぐに飾りなく いや伸びいそぐ龍城の 松の太幹とりどりに 生立つべき日は近し 空を賭よ地を踐みしめよ あくまで深き天地に 生きの身力徹らしめよ 校歌は今でも力強く高らかに歌いつがれていますが、改めて詩を読んでみると「地」という文字が三箇所に出てくることに気づきます。当時は関東大震災があり、伊豆地区でも大きな被害が出ていました。「地」に込められた意味は、震災後ゆえの大地に根を張った若人の未来を意識したのかもしれません。またその対象として「空」の字が二箇所、対語として自然界を強調しているように思われます。 4月は新入生の歌唱指導が行われる月ですが、校歌誕生の秘話を知っておくのもいいのではないでしょうか。 |