韮山高校の歴史とその周辺 第19話 

  韮高校歌秘話

       
桜井祥行(高32)

穂積 忠 先生


 韮高校歌作詞者である穂積忠先生は、有名な歌人であったことは知られています。北原白秋の一番弟子として、歌壇における穂積忠先生の評価はゆるぎないものであったと言われています。

 校歌を作詞するにあたり大正8年(1919)に、韮山中学校学友会では、校歌の懸賞募集を行いました。ところが、すぐに校歌ができたわけではなく、できたのは6年後の大正141925)のことでした。

 大正8年の段階では、穂積先生はまだ大学生でした。大学を卒業後、長野県にある松本高等女学校で教鞭をとった後、三島高等女学校(現三島北高校)に赴任しました。

 学校として校歌懸賞の募集をしたわけですが、応募作品が少なかったのか、学校側の意図するものではなかったのかわかりませんが、大正14年の12月に創立30周年を予定しており、学校としては新たな校歌制定を考えていたものと思います。

 紆余曲折の末、その栄誉に与ったのは、当時三島高等女学校で教鞭をとりながらも、新進気鋭の歌人として知られていた穂積先生でした。作曲佐々木英先生が行い、大正14年に無事、今日歌われている校歌ができました。

    を仰げば魂ゆらぎ を踏みゆけば肉躍る

      歴史は古き韮山の 男子の気噴吹き明れ

    勁くますぐに飾りなく いや伸びいそぐ龍城の

      松の太幹とりどりに 生立つべき日は近し

    を賭よを踐みしめよ あくまで深き天に 

      生きの身力徹らしめよ

 校歌は今でも力強く高らかに歌いつがれていますが、改めて詩を読んでみると「地」という文字が三箇所に出てくることに気づきます。当時は関東大震災があり、伊豆地区でも大きな被害が出ていました。「地」に込められた意味は、震災後ゆえの大地に根を張った若人の未来を意識したのかもしれません。またその対象として「空」の字が二箇所、対語として自然界を強調しているように思われます。

 4月は新入生の歌唱指導が行われる月ですが、校歌誕生の秘話を知っておくのもいいのではないでしょうか。


 その後、本校卒業生である水口満氏(旧中50回卒)から、貴重な情報をいただきました。

 水口氏は穂積忠先生の次男の故正彬氏(旧中50回卒)と旧友であり、正彬氏の証言から校歌作詞の裏面史がわかりました。 
 校歌には1番、2番、3番はなく、番号は付していないとのことで、間奏が入るのは間違いであるということでした。
 忠先生は、若人の躍動感と先人への畏敬を含めた意味合いを詞に託したと思われます。
 忠先生の研究については、生萩女史や市川良輔氏が知られていますが、肉親ゆえの秘話も貴重な証言であり、今後の研究の深化が待たれるところです。



 
                   韮山高校の歴史とその周辺 目次