韮山高校の歴史とその周辺   第18話
 桜井祥行(高32)

文武両道は第2代校長箕田申之のスポーツ振興から

  最近の韮高は体育の授業がかなりがんばっていると聞きます。新体力テストで優秀校の表彰対象になっていることは新聞でも目にします。ひと昔前はゆるやかな授業でしたが、受験に耐えることのできる体力を培うとのことらしいです。

 さて、韮高の歴史が古いことは何回も伝えてきていることですが、開校記念日4月15日になった由来はあまり知られておりません。これは旧制韮山中学校が開校した1895年(明治28)年の4月15日をさします。
 この年は日清戦争の始まった年で、世の中は軍国化の波にあり、文武のうち武の方に力点が置かれつつあった時でした。それ以前の伊豆学校はアカデミックな校風でしたが、これががらりと変わってしまったわけです。

 旧制韮山中学校初代校長の小永井解太郎の後を継いだのが、1900年(明治33)年1月に新たに赴任した箕田申之でした。箕田申之校長の父親箕田壽平は、江戸時代後期に三島で開かれていた福井雪水の千之塾で学び、近代三島の俳諧の父と呼ばれた人物で、本人も東京帝大(現東京大学)で史学を学んだ後、東京専門学校(現早稲田大学)で教鞭をとっている途中で、旧制韮山中学校校長に赴任しました。

 その時に箕田校長は、これまでの柔道や剣道に加えて、新たに野球やテニス、ボートなどの近代スポーツを導入され、その後の旧制韮山中学校の文武両道の校風に大きな影響を与えました。
 当時、学友会報が発行されるようになりましたが、ロンテニス(テニス)大会記事として次のように書かれています。

  …活発ナル精神ハ健康ナル身体ニ宿トハ吾人ガ常ニ唱導スル処 ニシテ…身体健全ニアラズンバ何ヲカナサン抑モ健全ヲ維持スルモノハ運動ナリ近来智徳体ノ声ニ連レテ体育トシテ運動ハ普及セリ…

 残念ながら箕田校長は在任2年半で病死してしまいますが、今日の運動部の基盤づくりをした功労者であり、質実剛健の校風をつくったといえます。

                  第二代 箕田申之(みた のぶゆき)校長

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