韮山高校の歴史とその周辺 第17話 

      安政東海地震あれこれ
            桜井祥行(高32)

 安政東海地震の発生は、嘉永7年(安政元年;1854)11月4日の午前10時頃のことである。これは旧暦なので、太陽暦に換算すると12月23日のことである。今から81年前に起こった北伊豆地震1930年(昭和5)11月26日午前4時2分のことであったから、いずれも寒い時期の地震であった。この安政東海地震はマグニチュード8.4であったということから、3月11日の東北地方太平洋沖地震の時とあまり変わらない。酷似した地震であることがわかる。

 安政東海地震の時は、下田湾では12メートルの津波があったことが記録にあり、日露交渉で来日していたロシアのプチャーチン提督のディアナ号は船が30分間に42回も回転したことを報告している。
 実は、ディアナ号修理の予定が、駿河湾で沈没し、このためにヘダ号が建造された面を中心に語られてきたが、そもそも100年〜150年に1回あるかないかの地震に巻き込まれたことも偶然で、それゆえ当時の記録こそ今まさに参考にすべき資料であろう。

 プチャーチンの部下の報告に次のようにある。
この地震の後、15分を経て、町の近くの海水が、あたかも沸き立つようになり、川の流れに沿って水かさを増して盛り上がり、浅瀬の個所では、白波を生じさせたり、水をはね上げさせていました。まさに、時を同じくして、海の方から海水が甚だ増加し、また、汚らしい色を帯びながら、犬走島と岬の周囲に沸き立ち始めました。水面は急に高くなり、町の近くに停泊していた日本型帆船は、川を遡って移動させられて走っていきました。…下田の町に対して、第2回目の上げ潮の大波が、正に破滅的でありました。通常の水面よりも、3サージェント程も水位が高まり、海面は村落全面を覆い、数分の間は、ただ寺院の本堂の屋根しか見えませんでした。このあと、湾内は、引き潮によって、家屋は帆船の破片や多数の屋根や家具や人の死体や、また、破片に取り付いて救われた人々で一杯になりました。全てこれらは、町の方から濁った水流により、信じられないような速さで運ばれて来たものです。…
                                  (『モルスコイ・ズボルニク』)
 文中にあるサージェントの単位は、2.13メートルである。


 当時の記録は他には蝦夷開拓で知られる松浦武四郎の日記が知られている。彼はこの時期下田に来ており、日記にはこの時のことを克明に記している。すなわち、
一丁計有之候山へ上り見候処、其浪は了仙寺の脇より理源寺の前に来り、番人の下の田畑皆泥の如く相成、直に引取申候。其引候を見候に、赤間の渡し場なる小屋は是にて流れ、中洲の船蔵等皆流れ、其洲の上に八百石計の船一艘上り居候。余の船三四艘沈、鼻黒の下へ着居候。追々、腰迄ぬれ候者共山の方に泣き叫、子は親を尋、親は子をさがして、右往左往に奔走仕つ、実に目も当られざる様に有之候。
 松浦武四郎の見た下田の町は、まさに3月11日の東北の姿と重なる状況だったのであった。

 この後の歴史は、プチャーチンが日露和親条約を結び、沈没したディアナ号に代り、ヘダ号で本国に帰っていくことで終結している。

 しかし地震という観点でみていくと、彼等の残した記録は貴重なものである。松浦武四郎は夜に何回が余震を警戒し、津波の有無を確認するために海岸に篝火を焚いたことも書かれている。
 我々の身に置きかえれば、寒い時期に起こった地震後の対応を考える必要があろう。東北地方は当日雪や霙まじりの所もあった。時間は昼間であったが、これが北伊豆地震のように夜明け前の暗闇だったらどうだったか。
 下田では山が近かったこともあり、誰もが逃げたというが、津波が来るまで15分という時間があったことが記録に残っており、逃げる時間も念頭に置いて行動すべきであろう。
                                  (伊豆の国市文化財保護審議委員 桜井祥行)

 



安政東海地震の下田湾(モジャイスキー画)



安政東海地震後の下田湾(モジャイスキー画)
      

          <清水町文化芸術活動促進事業<第145回泉のまちカレッジ>  2011/11/26
             安政大地震の津波とロシア船・ディアナ号
                  〜津波がもたらした被害とその影響〜
               の講演内容をもとに、同窓会メルマガ用に執筆していただきました

             


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