韮山高校の歴史とその周辺 第14話 

   柔道授業(講道館韮山分場)

       桜井祥行(高32)

 蓮池のほとりにある「講道館韮山分場之跡」碑に気づいた方はおりますか。
昭和621987)年に建てたものなので、卒業生の方は知らない方も多いかと思います。

 本校の柔道の歴史は古く、中でも有名なのは小説『姿三四郎』の作者である富田常雄親である富田常次郎が、明治20年頃に教えていたことがあります。

 富田常次郎という人は、もともとは沼津の西浦出身で、幼少時に天城で給仕をしているところを、海軍省管財課に関係する嘉納治郎作が天城山に出張の折に見初められ、嘉納治郎作の息子の治五郎の書生となりました。

 嘉納治五郎が明治151882)年に講道館を設立する折には、その一番弟子として尽力し、講道館四天王の一人として称せられるようになります。四天王とは常次郎をはじめとして、西郷四郎、横山作次郎、山下義韶の4人で、この中の西郷四郎が『姿三四郎』のモデルとなりました。

 富田常次郎は、明治201887)年に江川英武校長の私立伊豆学校の教師として招かれ、英語と体育を教えたといわれています。体育はもちろん柔道が中心で、このため韮山高校柔道場講道館分場と呼ばれる所以となったのです。

 常次郎はその後、学習院の柔道講師となり、柔道使節として渡米したりしました。得意技は捨身技・足技ということですが、「巴投げ」がその一つではなかったかといわれています。ちなみに西郷四郎は「山嵐」でした。

 このあたりのくだりは『講道館柔道側面史』に詳しく載っています。

 旧制韮山中学校が明治281895)年に開校した頃の寄宿生たちは、放課後柔道を練習するようにという寄宿舎規則があったくらいですから、韮山高校の体育の授業や柔道部の歴史は百年以上の歴史を刻んできたことがわかります。

 こうした過去がわかると、韮山高校の柔道場が『姿三四郎』とだぶってしまいがちになってしまいます。皆さんの記憶にある映像は黒澤明監督の映画『姿三四郎』でしょうか、それとも竹脇無我・新藤恵美主演のテレビ『姿三四郎』でしょうか。

  

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