韮山高校の歴史とその周辺 第13話 

   河西哲英訓導殉職碑

       桜井祥行(高32)

  
 浜松市立都田小学校では、毎年5月3日を「命を大切にする日」として河西哲英先生を偲んでいます。韮山高校と都田小学校との関係というよりも、この河西先生は韮山高校と深いつながりのある方です。

 河西先生は明治351902)年に三ヶ日小学校を卒業された後、県立韮山中学校で学ばれました。そして明治441911)年に韮山中学校を卒業しましたので、旧制中学校の第14卒業ということになります。同級生には初代三島市長となった花島周一がおりましたし、一つ下の学年には画家の柏木俊一がおりました。

 その後静岡師範学校を卒業して小学校の教員となり、大正131924)年に都田小学校の訓導(現在の教諭身分)、翌年には首席訓導(現在の教頭身分)となりました。

 事件は、昭和2(1927)年5月3日のことで、前日からの雨が続いていたことからこの日の午前9時頃に集団下校となりましたが、都田川は増水しておりました。一人の児童がその川に傘を落としてしまい、拾おうとした際に川に落ちてしまいました。

 河西先生はその児童を救うために自ら川に飛び込みました。幸い児童は助かりましたが、河西先生は流されて亡くなってしまいました。

 当時の静岡民友新聞はこのことを大々的に取り上げ、

「社会思想の善導上亀鑑となる 貴むべき訓導の殉職 河西氏の死大なるセンセーションを捲起す」

 という見出しを掲げました。

 孝心の篤い人物として新聞では紹介しておりますが、当時の日本の情勢は金融恐慌の折で日本中が財政事情が苦しく、かつ軍国化への萌芽もあり、そうした中で国民精神を鼓舞させるような捉え方をしているように思えます。

 河西訓導の殉職については、当然のごとく村葬となりました。さらには時の文部大臣水野錬太郎の書による殉職碑が建てられました。

 5月3日は憲法記念日であると同時に、韮山高校卒業生の殉職の日でもあることを是非知っていただければと思います。

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