韮山高校の歴史とその周辺 第10話 

     画家 坦案と谷文晁

       桜井祥行(高32)


自画像

 前回坦庵の剣術の話をお伝えしましたが、芸術の秋でもあり、坦庵が画家の側面をもっていたことをお話したいと思います。  

江戸時代後期の画家で有名な人に谷文晁(ぶんちょう)がおります。ラクスマンが大黒屋光太夫を日本帰国させたことで、時の老中であった松平定信は、海防のため伊豆半島の 海岸巡検に出かけます。その時にお供したのが谷文晁です。当然伊豆の管轄は坦庵の父親 の英毅でしたので、谷文晁は韮山屋敷の逗留することになり、そこでまず英毅と知己にな ります。その縁で坦庵は谷文晁から絵画の手ほどを受けました。  

谷文晁の画業は、円山応挙、狩野探幽とともに「徳川時代三大家」に数えられるほどで、江戸南画の大成者でもあります。  

坦庵は、はじめは大国士豊に習い、後半は谷文晁から絵画を学んだとされています。仲田正之氏(本校17回卒)は、坦庵の画風は一定せずに終り、本格的な師を得なかったといっておりますが、逆にそのことでオリジナルの芸術を身につけたと言っていいでしょう。  

坦庵の作品は彼の自画像をはじめ、斉藤弥九郎と甲州を隠密行動した時の模様を描いた 「甲州微行図」や天城における鹿狩りの模様を描いた「狩図」などを見ますと、写生の確 かさと、絵筆を常に携帯していたのではないかと思われる節があります。これは坦庵の友人でもあった渡辺崋山にも通じることで、崋山もまた谷文晁に絵の手ほどきを受けており ますが、大変な画家であり、絵を早く描く術を身につけていたものと思われます。  
崋山は有名な蛮社の獄で逮捕された後は、地元の田原藩で蟄居(武士に科した刑罰の一 つ、自宅や一定の場所に閉じ込めて謹慎させたもの)させられ、そこで自害しますが、彼 を慕う弟子たちが崋山たちは色々な免責運動をしました。
坦庵の慨世の句「里はまだ 夜深し富士の 朝日影」を詠った「富士画讃」の絵には、崋山を思う坦庵の気持ちが伝わっ てきます。  

坦庵はこれまで剣術等の稽古で体育会系のイメージが強かったわけですが、実は芸術家 として文化系の実績もあり、まさに文武両道を自ら体現したと言っていいでしょう。  

韮山高校の校訓は「忍」ですが、精神は「文武両道」と言っているのは、ここにありま す。

                  韮山高校の歴史とその周辺 目次