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江川坦庵の名前を聞くと、反射炉、お台場建設と出てきますが、本来は代官として幕府の政務・支配を代行する職務を行うのが使命でした。坦庵の場合は早くから洋学に興味を示していただけに海防策を建議し、非凡な才能を示していました。 坦庵の交流関係で意外に知られていないのが、ジョン万次郎の登用です。 土佐の漂流民万次郎は運よくアメリカ船に引上げられてアメリカ本土で英語教育を受けることができました。さらに運よく土佐に帰った万次郎は土佐藩に一時的に登用されます。 そこで坦庵は、彼を自らの翻訳兼外交顧問として招き入れます。 時はペリーが最初に来航した嘉永6(1853)年の11月のことで、姓も中浜と名乗りました。来るべき日米交渉の場に役立たせようという考えだったと思われます。 ところが、水戸の烈公と呼ばれた徳川斉昭は、アメリカのスパイという疑惑の目を向け、当時江戸幕府の中枢にいた阿部正弘に万次郎を登用させじと圧力をかけたのでした。 翌年1月に再び来航したペリーに対して、幕閣は万次郎を通訳・交渉の場に立たせず、オランダ語の通詞森山多吉郎を介して、日本語→オランダ語→英語という回りくどい通訳による日米交渉を行ったのでした。 しかしこの間、万次郎は坦庵の翻訳官として多忙な毎日を過ごし、坦庵にとって貴重な役割をはたしたのでした。 坦庵死後、万延元(1860)年には、日米修好通商条約の批准書を交換のための遣米使節団の一人として、咸臨丸に乗船しました。この中には坦庵家臣団もおり、彼は船内の秩序保持に努めました。 幸運にもこの時、かつて漂流した時に世話になったアメリカのホイットフィールドと再会することができ、彼が身に着けていた日本刀を贈ったといわれます。 坦庵の交流関係の広さは、彼の父である江川英毅の土台を受けついたものではありますが、非常に多岐に及んでいます。例えばそれは渡辺崋山や高野長英をはじめとする尚歯会の仲間や桂小五郎、勝海舟といった維新後の人物たちもおります。 次回はこういった面々との交流を紹介していきたいと思います。 韮山高校の歴史とその周辺 目次 龍城のWA!へ |