どうぞごひいきに
            
     
瀧川鯉之助こと 菅沼忠行(高42)
     注:同窓会報「龍城」平成16年夏号に掲載

 「瀧川鯉之助でございます。瀧川という名前は変わってるね〜とよく言われるんですよ。クビになって本名使ってるんじゃないかとかね。実は落語界には昔からあった名前なんですが、ず〜っと使われていませんでして、なんと私の先代は大正時代の人なんですね。タイショウ古い名前でして・・・」(笑うところ)
 6月のとある日の高座のマクラである。ほぼ満席の客席は次第にほぐれてゆく。やがてゆっくり羽織の紐が解かれ、歯切れのよい語り口と豊かな表情で噺がすべり出した。出し物は『かぼちゃや』だった。

思いがけずに
 落語家になろうと思ったのは大学を出てからですね。小さい頃に父親がテレビの『笑点』を見ていて、自然に興味を持っていましたが、その頃は小学生らしく漫画家になりたいと思っていましたので、まさか自分がこの職業につくとは夢にも思っていませんでした。
 高校時代も何も考えずにぼーっとしていました。大学に入って最初のアルバイトの給料をもらいに新宿の事務所へ連れられて行った時、通りがかりに「ここが末広亭だよ」と教えてもらいそれが寄席を見た最初でした。燃えやすそうな(笑)木造で、寄席文字や提灯がいっぱい並んでいてそこだけが周りと違う雰囲気でした。その後度々寄席に行くようになりましたが、その頃の興味の中心はもっぱらバンド活動でした。
 大学4年の頃、テレビで『落語のピン』という深夜番組をやっていました。斬新で非常におもしろく、その頃大学(なんと印度哲学科)で仲間と落研を作ったり色々な落語を見に行ったりするようになりました。
 そのうち寄席で見ているだけではがまんできなくなりまして、座ぶとんに座りたくなっちゃったんです。

師匠に直訴
 よし、やるぞ!と思ったのが、大学を5年がかりで卒業しフリーターをしていた夏のことでした。是非弟子にして欲しいと思う落語家に出会ったのです。それが今の師匠の春風亭鯉昇です。とにかくめちゃくちゃおもしろかった。それでいて気が抜けたふわふわした所に魅かれたのです。それで弟子にして欲しいと直接頼みに行きました。自分では、何度断られてもめげずに日参するうちに根負けした師匠が仕方ないとやっと許してくれるというイメージを持っていましたが、実際は「あっそう。いいよ。なんなら他の師匠を紹介しようか。」と、あっさりしたもので拍子抜け。とにかく弟子入りは許されましたが、師匠から言われたことが二つありました。一つは、最初は生活が厳しいので貯金をしておくようにと。二つ目は親をちゃんと説得して来いと。噺家になろうと言うのだから、それくらい説得できないでどうするんだと。そして、戦後餓死した落語家はいないと言えと教わりました。両親に落語家になりたいと切り出したら、案の定、どうやって食っていくんだと反対されました。ここで師匠に教わった殺し文句を使ってみましたが、何の役にも立ちませんでした。(笑)

そして落語家に
 たまたまその頃家庭の事情で一旦修善寺の実家に帰ることになりました。
 1年半ほど父の仕事(経師屋)を手伝いある程度貯金もできたので、結局なりたいという一念で反対を押し切って再上京しました。
 平成9年7月入門しました。最近は内弟子でなくほとんどが通いの弟子です。「春風亭鯉三(こいざ)」という名前をもらい8月に前座見習いで楽屋修行を開始。9月には見習いが明け本前座となり、浅草演芸ホールで初高座を務めました。ネタは『子褒め』。間違えないように喋るのが精一杯でした。

前座
 落語家は前座、二ツ目、そして真打ちと昇進していきます。前座は、出演者にお茶を入れたり、着物をたたんだりと裏方の仕事をしながら、太鼓もたたいたり、座布団を返す高座返しも務めたりと大忙し。雑用に必要なのであちこちに呼ばれて、下手をすると二ツ目になりたての落語家より年季の入った前座の方が実入りが良かったりします。
 前座を4年位務めると二ツ目になれます。二ツ目は芸人として一本立ちしたとみなされ、羽織袴が許され、噺も自由に選べます。と言っても古典落語は教わってからでないとできません。昔は三遍稽古のみで覚えました。師匠が演じるのをまねるだけというきびしいもの。今は録音機会がありますので二遍稽古(?)が多いです。

二ツ目に
 平成13年9月二ツ目となり、「瀧川鯉之助」と改名しました。「瀧川」は師匠と相談して選んだものです。普通は真打になるまで13〜14年かかるので(たまに抜擢で早い人もいるがたいていは順番に)まだ7〜8年先のこと。今は色々なことに挑戦しているところです。若手仲間で勉強会もしています。土曜日の夜の深夜寄席もそのひとつ。また芸人仲間で組んだハワイアンバンド「アロハマンダラーズ」にも参加しています。
 落語家とは場の空気を操る商売だと思っています。早く自分の落語を確立し、自分の味を出したいと思います。皆さんに鯉之助のイメージが定着するようにがんばります。
 どこへでも伺いますので、未熟者ですが、どうぞよろしく!

鯉のバカンス(瀧川鯉之助公式サイト





 「しゃべれども・・・」「てれすこ」をメルマガでPRしているうちに落語の魅力に嵌ってしまったので、鯉之助さんにラブ・メール(?)を出しました。
 来るかな☆来るかな〜と、ドキドキしながら待った返事に
 「余談ですが、渡辺敦さんは私の叔父の友人だそうで、
  ご本人とは面識はありませんが、叔父からチケットを
  いただいて『しゃべれども』を見に行きました。
   韮高の卒業生だとは知りませんでした。」
これはやはり縁ですかねぇ?
運命の出会いを感じてしまいました(笑)。
 『俄か落語ツウ』になるための指南をお願いしたところ
2008年1月号から小出しに連載してもらうことに決定! 
 お正月にはテレビで落語を聴く機会もあるでしょう。
着物着て寄席で半日潰すなんていう粋な時間の過ごし方
ができるといいな〜と早くも正月気分♪の
                 編集委員ドラえもんです。
   
 鯉之助さんが落語家になった理由などは会報を読んでいただくとわかるので このページの右側に掲載します。
 私が出した「鯉文」いえ「恋文」の返事とあわせて
 お読みください。

 

●「落語」ってどういう語源ですか?
 「落語家」と「噺家」の使い分けも教えてください。

 
 A.「落語」という言葉は「落し噺」から来ています。
   つまり「オチのある話」という意味です。
   「落語家」と「噺家」については、「落語家」が
   正式名称で「噺家」が俗称みたいなものです。
   親父の商売は「表具師」ですが「経師屋」とも言われる
   ようなもんですね(笑) 


●落語家に学歴は関係ないように思っていましたが、
 大学を卒業してから弟子入りする人も多いのですか?


 A.だいたい半分ぐらいは大卒です。
   大学には落語研究会がありますので
   そこから入ってくる人も多いです。(もっとも落研は
   入門時には何の特典にもなりませんが。)
   それどころか最近は社会人を経験してから入門
   してくる人も増えて、前座がやや高齢化しています(笑)

●大学を卒業するとき、普通のサラリーマンになろうとは
  考えなかったのですか?
  趣味として続ける方法もあったかと思いますが、
  落語家への道を選んだのは、育った環境も影響している
  のでしょうか?


 A.考えなかったですねえ。就職活動もしてませんし。
   落語はプロのもの、と思っていたのでそこは迷わず
   入門しました。
   趣味だったら見ている方が楽でいいですよ(笑)
   父は徒弟制度の頃職人になっているので修行すること
   に対しての違和感のなさはその影響ですかね?


●師匠は「春風亭」で鯉之助さんは『瀧川』。
  どうして名字が違うのですか?
 「○○亭」とかいう部分は、一門を表すのではないのですか?
 

 A.落語家の苗字は「亭号」と呼びます。
   同じ一門でも違う亭号を名乗ることはよくあります。
   例えば、橘家円蔵(先代)の弟子で月の家円鏡
   (襲名して当代・橘家円蔵)とか、
   柳家小さん(先代)の弟子で立川談志とか鈴々舎馬風とか。
   談志師匠は後に破門されましたが(笑)
   歌舞伎の世界でも、松本幸四郎の倅が市川染五郎でしょ。
   ただ何でもいい訳ではなくて 一門の中で使える亭号が
   決まっています。
   つまり「瀧川」は「春風亭」の一門が使える亭号
   だったわけです。
   師匠も今は「瀧川」ですよ。


●鯉昇師匠は、会報発行後の 2005年に 「春風亭」から
 「瀧川鯉昇(りしょう)」に改名?されたのですね。
 勉強不足でした。
   『鯉の滝昇り』とは縁起いいな〜
   ・・・瀧川鯉之助でそう連想していましたが
  鯉昇師匠が瀧川になったら「まさに!」ですね〜。
  出世の神様!?
  「一門の中で使える亭号が決まっている」というところは
  知っていると「通?」って感じですねぇ。 
  また詳しく教えてくださいネ。