昨年2回に渡り放送され、大反響を呼んだNHKスペシャル「ワーキングプア」
今年6月, 『ワーキングプア』ー日本を蝕む病NHK取材班・編)としてポプラ社から
出版されました。活字嫌いな私でも 読みやすく、発売当初は品切れになる程でした。
 今回は、執筆者のおひとり加藤洋さん(高41)に 新潟県中越沖地震の取材でお忙しい中、メールでお話を伺いました。
 加藤さんとの出会いは、昨年の関東地区韮山同窓会。初めて同窓会に参加された方々が自己紹介をするコーナーがあり
「韮高は中退していますが、今回 同級生の大村太郎君が誘ってくれたこともあり、
自分にも何かお役に立つことがあればと、厚かましいようですが参加させて頂きました・・・」というような 短い挨拶の中に、きっと何か伝えたいものを持っている方だな と
強く印象に残ったことを覚えています。
その後、何度かやりとりさせて頂いたメールの文面からは、決して押し付けがましくないものの、 ご自分の考えをしっかり持たれ、妥協しない強さが、 伝わってきました。



早速ですが、『ワーキングプア』という番組を作られたいきさつは?

 この『ワーキングプア』というNHKスペシャルは、当初、「日本の貧困」というテーマで取材を始めたものです。「格差社会」という言葉が広まっていましたが、その実態については広く伝えられていなかったということもあり、まず現実がどうなっているのか取材してみようというのが始まりだったのです。
 実は最初にそういう発想をしたのは私ではなくて、当時、私と同じように警視庁管内の下町の事件や行政を担当していた後輩記者と、その問題意識を聞いて、取材をしようと決断した上司の警視庁キャップなのですが、ともかく私も参加することになり、取材を始めました。

Z「荒廃を担う子ども」を担当されたそうですが、なぜ子ども達に目を向けられたのでしょう?

 手始めに取材したのが、東京下町の団地でした。取材班の記者それぞれが数十世帯を訪ね歩き、話を聞きました。すると、経済的に苦しい生活をしている家庭には母子家庭が少なくない、ということがわかってきました。夫との死別や離別などで子供を抱えたまま自分の稼ぎで生計を立てなくてはいけない女性たちです。そして、そうした母親の多くは将来を担う子供の教育費を負担しきれないことを悩んでいました。子供たち自身も家計のことを慮って進学や将来の夢を断念していました。貧困問題は、一面で、家庭の問題であり、そのまま子供たちの問題だと、取材の中で痛感したのです。
 
 貧困の犠牲になっている子供はいないのか。犠牲になっている子供たちは何を考えているのだろう。その問題意識から取材に入ったのが児童養護施設でした。児童養護施設の取材については 本にも書いているので、省きますが、私たちが『ワーキングプア』という番組を世に問うに当たって、子供たちに貧困による負の遺産を遺してはいけないということが大きなテーマのひとつでした。子供たちへの取材を通じて、その思いは強くなり、番組の中でも、そのことを強く訴えることができたと思っています。
 
 また、東京でも地方でも、最近、子供が犠牲になっている事件が増えているように感じています。特に児童虐待は(最近になって問題が顕在化しているせいもあるかもしれませんが)、記者として事件を担当していると、しばしば直面するテーマです。虐待はその家庭の中だけの問題なのか。 ふだんの取材の中で疑問に思っていたことについて、番組の中で問題を提起することができたのではないかとも感じています。

虐待は親子連鎖しがちだとも言われていますが、確かにおっしゃる通りですね。
本の感想をメールさせて頂いたお返事には、こう記されていましたが

   去年の今頃、およそ2ヵ月にわたって、児童養護施設に通い、取材したもののうち、番組の趣旨に合った部分だけを書きました。もっと放送で伝えたいこと、書きたいこともありましたが、時間や紙幅の関係で盛り込めなかった部分が少なからずあります。
児童養護施設では、大人が抱く人生への断念や欲望、そして虚栄の犠牲になった子供たちが共同生活しています。順風満帆に人生をやりすごしている大人以上に、人間の醜さ、汚さを知っている子供たちです。
 その子供たちと一緒にすごして、感じたことは、記者はみな自身の原点に帰って取材し、考えていくということでした。本のあとがきにある通り、自分たちの境遇を仲間たちや取材先とぶつけあって作った番組で、本です。

本には書ききれなかった想いを ぜひお書き下さい。

 番組を制作している間、いま「ワーキングプア」を取り上げて放送する意義について、みなで度々、議論をしました。貧富の格差そのものは今に始まったものではなく、以前からあったのではないか。途上国には飢餓のような絶対的な貧困があるのに、日本の貧困は果たして貧困問題と言えるのか。そのような疑問について議論をし、取材を続けました。
 
 放送をした後、たくさんの反響がNHKに寄せられましたが、私個人にも、取材でお世話になった方などが番組への意見を寄せてくれました。その中で、日本の高度成長期に青春期を過ごした方から「昔は貧しくても、いつかは平等になれるという夢があった。しかし、今はそのような夢がなくなっています」というハガキをいただきました。番組が反響を呼んだのは、誰もがワーキングプアになる可能性があるという点で多くの人が関心を持ったということもありますが、今の日本が抱える閉塞感に何らかの答えを見つけたいと考えている人が少なくないこともあったのではないかと思っています。
 
 番組や本では、その処方箋を示すことまではできませんでしたが、番組を観たり、本を読んでいただいたりした方が、それぞれの立場で処方箋について考えたり、議論をしたりするきっかけになればと思っています。本のPRになってしまい、すみません。

いえいえ、その意図は十分に伝わったと思います。
では、加藤さんご自身のことについてお尋ねさせて頂きますが、
韮高は中退されているそうですね?
 

 韮高を中退したのは2年生の秋でした。ちょうど11月中旬の修学旅行が終わって、週明けの月曜日だったと思います。すでに木曜日に出発する成田発ローマ行きのアエロフロートの片道切符を買っていました。「高校を辞める」と部活やクラスの仲間に言った後、同級生から「お前、将来のことをきちんと考えているのか」と言われて、初めて、ああ、そういえば考えていなかったなと思うほど、無軌道な行為でした。ただ、現状に甘んじたくないという思いと、放浪をしたいという強い思いが重なって、決断をしたのだと思います。

ローマを始点に東西ヨーロッパや中近東、中国と、野宿や安い夜行バスでの移動を繰り返して、陸路でユーラシア大陸を横断しました。日本に戻ったのは同級生の卒業式のころ。17歳から19歳になる直前まで1年3か月あまり、海外での放浪生活をしていたことになります。

よい経験だったと思いますが、今思うと、特に貴重だったのは、共産主義下の東ドイツのベルリンをはじめ東欧各国を訪れたことです。ベルリンの壁が崩れる1年あまり前。チャウシェスク独裁化のルーマニアのブカレストでは、パンを待つ長い行列と、市の中心部でさえも舗装されずに砂塵が舞い散る中に、独裁者の巨大な宮殿が造営されていました。そのブカレストで出会った女子学生が、翌年、政権が崩壊した直後に、大きく「FREEDOM」と書いた手紙をくれました。自由を得た喜びにあふれた手紙でした。自由を希求することの大切さを強く胸に刻みました。

海外に行かれることをご両親には反対されなかったのですか?
 

 はじめは強く反対されました。今はどうかわかりませんが、当時は未成年者がパスポートを取得するには保護者の印鑑が必要でした。一人でパスポートの申請用紙を取りに行き、すべて記入してから、父に「高校をやめて海外に行きたい。印鑑を押してください」とお願いしました。父は、しばらく考えるようにと言いましたが、しばらくして「お前は言い出したら聞かないから」と言って、了承してくれました。
 親にとってはとんでもないことだったと思いますが、理解してくれたことについて、当時も今もとても感謝しています。

きちんと信頼関係が築かれていたのですね。
帰国後、大検を受けられて、大学に入学するまでの簡単な経緯をお聞きしてもいいですか?
 
 帰国してからは三島駅前のホテルで働きながら勉強し、大検を受けました。当時は年に一度のチャンスで、夏にだけ受検できたので、帰国した3月から7月までの半年近くの間、夜勤の仕事の合間に高校時代の教科書を開きました。その甲斐もあってなのか試験には受かり、大学の受験資格を得ました。
 その後も旅に出たりして、大学に入ったのは2年遅れでした。高校を中退してから、一人で過ごしたり、勉強したりした時間が長かったので、大学で多くの人と席を並べて、講義を受けるのはとても新鮮でした。

NHKに入社された動機
は?

 放浪生活から帰ってきた頃、産経新聞の国際部にいた近藤紘一さんの本に出会いました。ベトナム戦争の頃に特派員として活躍した記者です。近藤さんはすでに亡くなっていましたが、サイゴン陥落のルポルタージュや、再婚したベトナム人の妻と娘との日本での生活を描いたノンフィクションを愛読しました。その頃から記者という仕事に漠然と憧れのようなものを持つようになりました。
 しかし、就職先は新聞ではなくて、テレビ。そして国際部ではなくて、社会部に籍を置いています。

 なぜNHKにというと、新聞にも魅力を感じていましたが、テレビというメディアの中に身を置いてみたいとも考えていたからです。
そして、NHKはテレビの中では唯一、全国の放送局に赴任して働くことができるのも魅力でした。大学時代は東京にいたのですが、就職先を探す頃になると、どこか地方の町で働いてみたいという志望がありました。実際に、採用されたあと、初任地の希望を出すことができるのですが、山形県の「庄内平野」と書きました。当時、森敦の「月山」という小説を愛読していて、その舞台となっている庄内平野に行ってみたいと思ったからです。人事の方には「こんな志望を書く新人は初めてだ」と言われましたが、その希望は叶って、庄内平野にある鶴岡支局で勤務することができました。日本海に面した東北の城下町での取材の日々は、今でも懐かしく思い出します。
 
なぜ社会部の記者を選ばれたのですか?

 社会部を志望したのは、日本社会で起きている事件や出来事を最前線で取材できるからです。去年からは主に検察庁を担当していて、東京地検特捜部が手がける事件の取材をしています。特捜部が捜査する事件は、贈収賄事件や談合事件、それに大型の脱税事件など、日本社会が持つ歪みや暗部を浮き彫りにするものが少なくありません。社会の病んだ内臓に分け入り、その病巣を断ち切ることが記者としての醍醐味ですし、そのような記者であることを目指して日々、努力をしていきたいと思います。

今回のインタビューをお願いした頃には朝鮮総連の施設売買の取材をされ、お返事を頂いた時は
中越沖地震の取材後でした。本当にお忙しい日々を送られていると思いますが、
地震が決して人事ではない私たちに、現地に行かれて感じたあらかじめしておいた方がよい対策などがありましたら教えてください。

 7月に起きた新潟県中越沖地震の取材で、大きな被害を受けた柏崎市に1週間入り、取材しました。私が柏崎市にいる間、電気は通っているものの、水道やガスは使えない状態でした。避難所にいる被災者の方たちは仮設トイレを使い、食事は炊き出しが無いときは、冷たいおにぎりやパンという生活でした。
 
 地震対策というと、とても一言では言い尽くせません。住宅の耐震補強家具の固定非常用食品の準備。それに家族の連絡方法をあらかじめ決めておくことなど、備えはいくらしても、足りないのだと思います。
3年前の中越地震でも現地の取材をしましたが、地震のエネルギーは想像以上です。今回の地震でも、被災者の方に聞くと、家具が倒れてきたりして逃げようとしても、とても歩けない状態だったと聞きました。倒壊した住宅、アスファルトが波打つ道路、がけ崩れ。どの現場を見ても、改めて地震の爆発的な力を軽く見てはいけないと思いました。

寄付金を募って行われた有慶館の耐震補強も大切なことですね。
7月25日の「ニュース7」「ボランティア事情」についてレポートされていましたが、
今、被災者の地域、人が必要としているものは 何ですか?


 被災地の方が必要としているものも多岐にわたっています。国をあげての物的・精神的な支援が必要なのですが、遠くに住む私たち個人ができることは限られていて、寄付や休みを利用したボランティアがあげられます。
特にボランティアは、被災地にはお年寄りだけの家庭も少なくないので、大きな役割を果たしていると思います。家の片付けとか、仮設住宅への引っ越しなど、これからもまだまだボランティアの力が必要です。現地では、地震についての報道が少なくなるにつれて、社会の関心が低くなり、ボランティアが不足するのではないかと心配する声も聞きました。柏崎市刈羽村には災害ボランティアセンターが立ち上がって、ボランティアの受け入れをしているので、もし興味がある方がいらしたら、ホームページで調べて連絡をしてみていただければと思います。

きっとこの経験が仕事にも生かされるはずだと、全従業員を連れ 仕事を休んでボランティアに参加された経営者の方もいらっしゃいましたね。
最後に、現役高校生や同窓生の皆さまへのメッセージがあれば、お書き下さい。

 韮高に在学したのは結局、1年半の間でした。在学中、主体的に何かをしたわけでもありませんし、勉強や部活(サッカー部)で抜きん出たことができたわけでもなく、好きな本を読んだり、音楽を聴いたりと、たゆたう時間に身を任せただけの1年半でした。
しかし、それでも、その1年半というのは、かけがえのない日々だったと思います。海外での放浪生活から帰国して韮高を訪れた際に、職員室で、2年の時の担任の平田先生と数学の澤田先生から「今から復学して戻りなさい」とおっしゃっていただきました。とてもうれしかったのですが、その時はもう高校には戻れないなと感じました。高校生活は一回限りのもので、いったん旅立ってしまった以上、そこに戻るのは何か神聖なものを汚す行為のような気がしたのです。

そのかけがえのない時間を、「中退」という形で、自ら断ち切ったのですが、失ったものへの哀切の思いが増すように、短かった高校生活をすごした韮高への愛惜の念はとても強く残っています。
同窓会の席などでお会いするときに、皆さんと韮高での日々のことを語り合うことが、自分にとって経験できなかった残り1年半の高校生活なのかもしれません。今後ともよろしくお願いいたします。

お忙しい中、本当にありがとうございました。またご協力頂ければ幸いです。

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『ワーキングプア』

NHK社会部 記者 加藤 洋 さん (高41)