ちなみに‘wind’は「管楽器」を意味し、「ウインドオーケストラ」とは、管楽器と打楽器だけのオーケストラのことで、通常のオーケストラには無い特殊な管楽器があったり、クラリネットが13人もいたりする、とっても刺激的なオーケストラです。
以下、自分のブログから関連記事を3つ、ご紹介します。
スコアは上から順に…ピッコロ→フルート→オーボエ→ファゴット→クラリネット→サックス→金管→パーカッション。
この並びは即ち、音色(倍音)の淡い楽器から濃い楽器へ、強弱の幅の狭い楽器から広い楽器へ…の序列であり、言わば楽器間の弱肉強食の力関係をも示している。
同時に、それぞれの楽器グループ内では、1番から2番、3番…と下に行くほど、発言内容が控え目になっていく。
クラリネットなどはB♭管だけで9人もいるから顕著だ。
6〜9番奏者達は沈黙を守りつつ、時にはがっちりとした背骨となって上位パートの細かい動きを支え、また時には刷毛でさっと刷いた輪郭線の残像のごとく、音の織物をソフトに包み込む。
その結果オーケストラ全体は、あたかも大きな風景のような―近くの物は色鮮やかなのに、遠くの物ほど淡いグレーのモノトーンになる―グラデーションを実現するだろう。
(2006・09・09)
ピアノ曲をオーケストラに編曲する際、ピアノの休符をそのままオケの休符にする訳には行かない。ピアノの休符の殆どは、実際には前の音がペダルで延ばされているからだ。
これに気づかず、楽譜通りオケも休符にしてしまうと、緊張感の途切れた、間の抜けた、まるで落とし穴に落ちたような瞬間が生ずる。
また、休符が無い場合も要注意だ。
1小節で音が終わっているように見えても、ピアノでは実際はペダルでその小節全体の響きが延ばされていることが多い。1小節目の響きの上に2小節目が重なり、これら2小節分の響きの上にさらに3小節目が重なり…というように。
しかしこういう場合でも、ピアノの楽譜は、各小節で弾かれる音しか書かれず、残響まではいちいち書かない。
だからその効果をオケに移すには、それぞれの残響のパートを新たに作ることになる。
ただし、何でもかんでも、ペダルの時は音を引き延ばせば良い、というものでもない。
その例がスフォルツァンド。スフォルツァンドの箇所でもペダルを使うが、この場合は音を延ばすためではなく、倍音を増やして音を目立たせるためだから、他の場合と同じように、ビィーッと音を長くしたら、全然ピリッとせず、目立つどころか埋没してしまった。
逆に、実際の譜面よりも短めの、スタッカートにしたらしっくり来た。
…極めてピアニスティックに書かれた原曲を、どこまで「極めてオーケストラ的」に編曲出来るか。
そう考えると―Transcription(編曲)―もなかなか創造的な仕事だ。
(2006・07・09)
絢爛たる音色、圧倒的なダイナミズムを持つ吹奏楽(ウインドオーケストラ)の名作―それらを聴くほどに、一方でなぜ?と思うほど単調に感じてしまう。
その最大の理由の一つは、転調が無いことではないだろうか。
ワーグナーもどき、R.シュトラウスもどき、マーラーもどき、ラヴェルもどき、ショスタコーヴィチもどき…なるほど、後期ロマン派風の魔術のようなオーケストレーションを施された佳曲は数あれど、それらの殆どはせいぜい近親調以外に転調しない。
ロマン派の音楽は遠隔調への自由自在な飛躍こそ古典からの脱皮の象徴であったはずなのに。
移調楽器の集合体故か(管楽器は転調が苦手)?それとも、転調したら音域の無理な楽器が生じ、その都度アレンジし直さなくてはならず、面倒くさいからか?
或いは管楽器ばかりの様々な音色による異種混合集団ゆえ、楽器自体が持っている色彩のコントラストと比すれば、転調の効果など微々たる物、と衰退してしまったのか?…あたかも季節の変わらぬ、年中燃え盛っている熱帯雨林の如く。
結果的に、シャコンヌや変奏曲などは得意で、交響曲と称するものでは「まがい物」の感を免れない。なぜなら、交響曲では転調こそ最大の構成原理だから。
しかし、そう言えば「現代音楽」も、とうの昔に調性による作曲法を捨てた。
調的概念の無い(乏しい)ことでは、吹奏楽と通じる、とも言える。
現代音楽が、転調に匹敵する効果を転調という手段を用いずに作れるかどうか…。 その試金石として奇しくも、吹奏楽という媒体は打ってつけだ。
(2006・05・17)
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