龍城のWA!第23回
韮中のこと 
近藤 哲朗 (中53回卒・高2回)


                 

 同期の栗原君のお陰で韮高のメルマガに寄稿する破目になりました。
我々の同期は戦後の学制改革の真っ只中で学生時代を過ごし、韮中53回韮高2回の同窓会に属している。

 私は韮中4年修了で運よく旧制静岡高校に滑り込みましたので、旧制中学を卒業もせず新しい韮山高校も全く経験がありません。龍城山下の中学校には終戦の日を丁度真ん中に挟んで4年間在学した訳です。

 前半1年半の戦時下の学生生活での第一の思い出は伊豆長岡の自宅から学校まで徒歩通学させられたことです。学校を中心として半径何kmかの円に入る所からは徒歩通学を強制させられました。伊豆長岡から韮山までは駿豆鉄道で僅か一駅でしたが。自転車にも乗れず、田圃や畑の中を近道をして狩野川の橋を渡って、反射炉の近くを通って通学していたのを覚えています。 
授業は、1年の時は杉田ゲンパク先生の英語もありましたが、戦時色が濃厚になり配属将校の軍事教練が体操にとって変わり、工場動員はありませんでしたが、軍人に連れられて山に松根油を造る松の根を採りに行ったのを思い出します。遂に校庭も開墾されて油を採る蓖麻の畠になりました。

 八月十五日のことは良く覚えています。夏休み中なので、正午に、家で家族と玉音放送を聴きました。音が悪く意味も良く解りませんでしたが、戦争は終わったと父が言いました。その夜は灯火管制の電灯の蔽いを外して辺りを明るくすることか出来、開放感を味わいました。

 夏休みが終わって学校へ出ると、すべてが様変わりで驚きました。休み前までは、必勝の信念、鬼畜米英とか言っていたのが、民主主義、自由主義になりました。教科書も不穏当なところは墨で黒く塗りつぶして使いました。思えば、夏休みの真っ只中の終戦で先生方には良かったのではないでしょうか。学期中であれば、急変する時間が無く大変なことです。

 後半の2年間は、世の中は大いに変わり、食糧難でもありましたが、幸い伊豆の田舎暮らしで、それほど悲惨でもなく、学校の方も鮮烈に思い出すようなこともなく、旧制静高への受験勉強に忙しくしていました。

 若し受験に失敗して、新制韮山高校に移行していれば、また別の韮山での学生生活の歴史があったのでしょう。

 お終いに、韮中についてはその校歌に触れなくてはなりません。同期の穂積君の父の作詞になる歌詞がとても好きですし、曲も朗々としていて、同期会の最後に皆で肩を組み合いながら、これを歌うと、平凡なる韮中時代ではありましたが、胸が高鳴るのを覚えます。

 高校野球のテレビ中継で聞かれる戦勝校の諸々の校歌に優るし、今でも寮歌祭で歌われる旧制高校の有名な寮歌にも引けをとらないと思います。
                      (2006.7.22)



@@@ドラえもんの質問@@@

【Q1】「蓖麻」は「ひあさ」と読むのですか?

 
a.「蓖麻」は「ひま」と読みます。
  あの戦争は石油を止めらたこともその一因と言われていて、戦争に使う油が足りず、蓖麻子油(ひまし油)を採るために「ひま」を校庭に植えた記憶があり、「ひましゆ」で変換したら出てきました。



【Q2】旧制中学と新制高校がよくわからないのですが、
  近藤さんが韮山に通学していたのは何歳から何歳までですか?

 a.  旧制の学制は小学校6年、中学校5年、高等学校3年、大学4年でした。
   中学校に行かない人が多く(試験に落ちて行けないのではなく)その人は小学校の高等科にもう2年間行った。
   中学校から高等学校への入学試験は4年と5年の2回受験出来た。私も4年で試験に落ちてももう一年韮中5年をやって又高等学校が受験出来る筈であったが、韮中が無くなり韮高になってしまったので落ちれば新制韮高に行かざるを得なかったことになる。
   だから最後のチャンスに運よく滑り込んだ訳です。
    私は早生まれですので 韮中には満12歳から16歳までの4年間在学しました。

     
 
写真の説明
昭和24年10月物資不足で何も無い時の運動会の入場行進を野球場から山上への階段を上り切った地点から撮影した1ショットです。珍しいのは校旗を支持して先等に歩いている生徒がひだスカートを着用していることです。当時女生徒は十人くらいしか在校して居なかったでしょう。会長席前を後続の生徒が歩いていますがトラックの内側を耕作し甘藷や蕪を植えました。ひまし草を植えたか記憶がありません。走り幅跳び用の砂場が見えますが野球の左翼手はこの辺で守らなければなりませんでした。フェンスの向こうは田圃で其の中の家並みは「蛭が小島」に行く道筋です。遥か向こううに見える韮山小学校まで全部稲作地で長岡から原木まで田方平野でした。 (写真提供&説明文=栗原一)

この写真は、「朋友在韮山」の栗原さんに探していただきました。
「ひまし油」を作る「蓖麻」を植えるため校庭が開墾されたという近藤さんの話を興味深いと書いたところ、

『貴女はひまし草なんて知ってます? そう あれは回虫駆除のふるーい薬を採取する用途で栽培されていたのですが戦時中はヒコーキのエンジンに使用するグリスの代用品にするために強要された植物です。』と教えてくれました。

そして、2006/8/10。
ココに公開された写真とコメントを見た近藤さんは、こんなことを書いてくれました。
 栗原君の写真のコメントの中に
「ひまし草を植えた
か記憶がありません」とありますが、
昭和24年はもう
戦後で、戦争に不足な油を採る為蓖麻を植える
   必要は無く、食料不足で芋を植えたのでしょう。
は韮高になってからのことは全然知らない訳ですし、
   蓖麻を植えたのは戦争末期の昭和19か20年の
   ことだと思います。校庭一面に植えられた変わった形
   をした植物のことを妙に鮮明に覚えています。

そう。私は昭和20年8月15日を境に世の中が大きく変わったという事実を、
これまで深刻に意識したことがなかったことに気がつきました。
どこか他人事のような、触れなくてもいいことのような・・・。
韮高が旧制中学から新制高校になったことも漠然としていて、
『私は韮高卒ではないので(高2)ではなく(中53)です。念の為。
   私の同期会は韮中53回と韮高2回の寄り合い所帯です。』
と近藤さんが説明してくださるまで、
「どうして高2回の名簿に載っていないんだろう?」と首を傾げていたのです。
韮高の同窓会名簿の厚みには、目に見えない厚みが何層にも重なっているのですね。
戦争・学制について、今回の寄稿を通じ、私は勉強させていただきました。
先輩方に直接お話を聞けるということは、素晴らしいことだと感じました。
まだまだ疑問がたくさんありますが、そのつどお尋ねしたいと思います。
ご指導賜りますようお願い申し上げますねっ!!先輩。
                    (ドラえもん)

    韮高同窓会ホームページのトップへ戻る