韮山高校に再び勤務して思うこと

   −野球部卒業生たちとのその後の交流を中心に−

 韮山高校 教頭  秋津 温

皆さん。初めまして。私は現在、韮山高校に教頭として勤務させていただいている秋津温(おん)と申します。同窓生でない自分がここに登場して良いのだろうか、とも思いましたが、このHPを管理している鈴木祥哉君(高24回)が小学校2年生の時のクラスメ−トということもあり、了解せざるを得ませんでした。(もっともひょんなことで、)本校PTA顧問(元PTA会長)の野村知史氏(高19回)と飲んでいた時に偶然彼を紹介され、それが小学校2年の途中で転校して以来の再会ということになったのです。人の巡り合わせって本当に不思議ですね。

 さて、私は新任校の東伊豆の稲取高校より、昭和の末期から平成の始めの頃、国語の教員として本校に勤務し、それ以来、教諭として御殿場高校、沼津工業高校を経て、教頭として熱海高校に3年勤務して通算して14年ぶりの再勤務となりました。実は以前の韮山高校の離任式で感極まり、溢れ出ようとする涙を必死でこらえているうちに、つい、「自分は年を取ったら必ずこの学校へ帰ってくる。」と、衝動的に言ってしまったのです。で、そのことをかなり多くの教え子やかつての同僚が覚えていて、「先生、やっぱり約束守ったね。」と言われて(それはあまりにも偶然だったのですが、)赤面せざるを得ませんでした。

 私は韮山高校にかつて教諭として勤務した時には、国語の担当、クラス担任、生徒会顧問等多くのことを経験させてもらいましたが、その中でもやはり最も大きなウェ−トを占めていたのは野球部の顧問としての活動でした。その野球部の活動を通して教え子たちとのふれあいを中心に述べてみたいと思います。

 当時、野球部の監督をしていたのは松島秀典さん(現、伊豆中央高校教諭)という英語の教員でした。浜松商業から早稲田大学に進学し、東部に何の人脈も持たないまさに孤高の精神を信条とした彼は、実は長い韮山高校の野球の指導者たちの中でも、(あまりその存在は知られていないのですが、)間違いなく極めて優秀で、かつ韮山高校の生徒の指導者として最も適任(韮高にふさわしい野球の実践)であったことは、パ−トナ−としてともに指導に当たった私が自信をもってそう答えられます。そんな訳ですから私も大変やりやすかったのですが、彼との野球部の指導の中で忘れ得ぬ多くの思い出があります。

 平成2年のことですが、エ−ス井深有(高43回)を擁し、長倉宏行(高43回)を始めとする県下最強と言われた強力打線の大きなチ−ムができたことがありました。それから数年経って甲子園に出場した平井渉(高48回)・長倉靖明(高49回で宏行の弟)のバッテリ−のチ−ムと比しても勝るとも劣らないチ−ムでした。実はもっと正確に言うならば、内・外野の守備範囲や肩、スイングスピ−ドを始めとする身体能力や総合力は甲子園出場組より上の力を有していました。では、なぜ甲子園にいけなかったのか。今思えばチ−ムにややスキがあったようにも思います。その昔、エ−ス米山尚之(高37回)を擁し、東海大会に進出したチ−ムもそうですが、韮山高校野球部は不思議なことに3・4年に一度ぐらいの割で、なかなか力のある選手が揃うことがあります。その井深有は後に慶応大学に進学し、東京六大学で26勝をあげ、慶応大学でも歴史に残る投手に成長し、さらに日本石油でも都市対抗、日本選手権でも活躍、現役引退後も投手コ−チとして後進の指導に当たります。井深と県下屈指の強力打線、堅い守りを持ちながら、なぜ秋も夏もベスト8でとまってしまったのか、それは当時、井深の制球力が不安定で四球を連発することがよくありました。従って甲子園に出た平井の制球の良さとの差がそのまま結果として物語っていると思います。

しかし、もう一つ韮山高校野球部が長い低迷期を脱してチ−ムとしてまとまってきた背景には、実は野球部OBの堀井哲也君(高32回)の貢献を抜きに語ることはできません。彼は慶応大学でも外野手、5番打者として活躍したのですが、卒業後、三菱自動車川崎の選手を経て、マネ−ジャ−となります。その頃、しばしば練習の指導に大昭和製紙の主将・コ−チとして活躍中だった同級生の木村泰雄君と訪れてくれました。そんな縁で生徒を連れてしばしば三菱自動車川崎の野球部に連れて行きました。当時、三菱川崎の合宿所の4階がビジタ−専用となっており、そこに宿泊しながら、つまり社会人と寝食をともにしながら練習し、また首都圏の野球名門校と練習試合をしたわけです。(実は、このような企画はやり過ぎであると批判の声がない訳ではありませんでしたが、若さに任せて押し通した気がします。) 吸収能力の高い韮山高校野球部員は、野球を仕事とすると言っても過言ではない社会人の姿勢や技術を目の当たりにして、また、水準の高い所に視点を置いた野球への挑戦を始めたのです。ある夏、遠征先で法政二高、桐光学園、早稲田実業、国学院久我山等を一方的になぎ倒し、負けたのは九州の福岡工大付属だけということもありました。伸び盛りの高校生、加えて向上意欲の強い韮山高校生にとって、そのような場を与え、経験を積ませることは極めて効果的なことでした。そのような飛躍する機会を何度も与えてくれた堀井君には言葉では言い尽くせないほどの感謝をしています。そして彼とは無二の親友のような交流をいまだに続けています。彼はその後、三菱自動車岡崎の初代監督となり、日本選手権3位、都市対抗準優勝チ−ムを作り、現在はJR東日本の監督をしています。この夏には、監督とともに再び部員全員をJR東日本野球部に連れて行き、同じような経験をさせて、さらなる向上を目指していく計画でいます。                                          

    堀井哲也氏(高32) 野球部百十周年記念式典にて

ところで私にとって韮山高校の野球部顧問としての最も大きな思い出は、実はそのような強力チ−ムの育成にあった訳ではありません。ある時、いかにも弱々しそうで、およそ野球とは無縁の生徒が入部してきました。キャッチボ−ルもトスバッティングもおよそできない生徒でしたので、そのうち辞めるだろうと高を括っていました。ところが最もきつい1年の夏を過ぎても一向に辞める気配がありません。それどころか、真剣そのものなのです。不思議に思って、彼の父親になぜ野球部に入部したのかを尋ねました。すると驚くような答えが返ってきたのです。中学時代の成績は学年トップ、生徒会長もして同級生や先生方からの信頼も厚い、加えて人生で一度も挫折した経験がない、まさにス−パ−エリ−トだった彼が韮山高校に入り、両親は子育てとしてこれでいいのか、一度も脚光を浴びることのない、下積みを経験させないとこの子の将来に良いことはないと考え、彼が最も苦手な球技、とりわけ野球を勧めたのだそうです。私はその話を父親から聞き、驚愕するとともに、まさに畏敬の念を覚えました。過保護な子育てが問題となっている昨今、すごい親が存在する。彼は必死に頑張ってとうとう3年の夏ベンチ入りを果たしました。むろん出番はありませんが、3回戦の8回だったと思います。試合は大敗ム−ドの2死ランナ−なし。監督の松島は彼を代打を告げたのです。その時の彼の必死の形相は今でも瞼に焼き付いています。3年間の練習の中で彼が会得したバッティング技術は外よりのストレ−トを右方向に追っ付けるだけでした。簡単に2ストライクをとられました。確か2−2の平行カウントからその外よりのストレ−トが来たのです。(おそらくその時変化球がきたら彼のバットは空を切っていたと思います。) 彼の一撃は一塁・二塁・ライトの中間にポトリと落ちるヒットでした。彼が誇らしげにファーストベースに立っている姿をよく覚えていますが、私にはそれは韮高の野球部生活の中で何より嬉しいヒットでした。「ああ,お父さん、良かったね。あなたの子育ては見事だった。そしてそれに応えた息子の努力も立派。たいしたもんだ。韮山高校の野球部はこのスピリットを決して忘れてはならない。」と。これが私の高校野球の顧問としての原点であり、また、教員としても大切にしなくてはならないことであると今でも強く思っています。

さて、そんなことに代表される野球部の思い出は尽きないのですが、その後、つまり彼らが大学に進学し、そしてそれぞれに就職していく中で、私も御殿場高校を経て、沼津工業高校にいたのですが、韮山高校野球部の教え子たちの仲人を5組もすることになりました。いずれも社会人として立派に成長し、前途が有為な若者たちばかりで、およそ私の出る幕ではないのですが、結果としてそのような任務を果たすことになりました。自分の子供の分だけするべきだ、と言う考えも聞く所でしたが、そういう意味では娘二人の私には過重な任務だったかも知れません。しかし仲人すら置かないことの多い昨今の若者の結婚式に際し、それだけのことができたのは、それは実は私に対する彼らの信頼の念からではなく、ただ韮山高校の当時の野球部の活動が極めて健全で、かつ良い雰囲気でもあり、そこで活動を続けた若者たちにとって忘れ得ぬ貴重な青春そのものであったことの証であったからだと思います。嫁に行った当時のマネ−ジャ−たちも、盆や正月に里帰りすると、子供と荷物を置いて「温先生の所へ行ってきます!」。等いつもそんな感じです。また、いつも我が家やそこいらの居酒屋に集まる教え子たちとは仕事の悩み、家族のこと、いろいろな話をよく聞かされます。女房も苦笑いしながら、「あんたのどこがいいのかねぇ。」などと言いつつも、結構楽しそうに話を聞いています。

そんな気楽な毎日を送って再び韮山高校に戻ってみたら、当時の教え子である小雀浩一郎(高42回)が監督を務めており、再び巡り合うこととなりました。彼は先ほどの井深の1学年上の投手であり、先発井深の控えとして終盤をきっちり抑える安定した投手でした。卒業後、中央大学の法学部に進学した彼が大学3年の時に教師志望として私の元に相談に来ました。名門大学に進んだ彼の教職への志望に私は必ずしも賛成しなかったのですが、その熱意に了承せざるを得ませんでした。伊東城ケ崎高校での8年を経て、母校の韮山高校の監督として子供たちの指導に当たっている姿に驚きました。こいつ、どこで、こんなに野球を覚えたのだろう。かつて生徒のセンスにたよってほとんど力任せの野球しか知らなかったはずなのに、実に理に適ったきちんとした野球をやる。当時の指導者よりも数段上の指導を実践している。見事だ。赴任早々は、なかなか浸透しなかった点もあったようだが、今は立派にこなしている。一昨年の夏のベスト16、昨年はシ−ド校に選出されてのベスト8入りを果たす等、傑出した選手がいない中で安定した成績も残している。いつの日か、しかもそう遠くない将来必ず再び甲子園を確実に狙える日が来ることを私は確信しています。小雀は真剣に必死になって野球を研究し、子供たちを確実に育てている。これで安心して韮山の未来を託せることを実感したのです。

私は教員としてさほどの力もないのですが、本当に幸せ者だとつねづね思っています。実は教員社会も民間並み、いや時としてはそれ以上の厳しい環境に移行しつつあるのが現状です。よく「大過なく教員生活を過ごすことができた。」と、先輩教員の退職の挨拶状に書いてありますが、私はそうではなく、「皆様のおかげで良い教員生活を送ることができました。」と胸を張って、8年後、そんな思いを抱きながら教壇から降りることができるように、今後も子供を愛し、学校を大切にし、教え子との語らいを何よりの楽しみとして日々精進したいと思います。

                     龍城のWA!