龍城のWA!第21回

朋友在韮山 

栗原 一 (高2回)

昭和24年頃 龍城山より撮影したものです 
  
高校時代の筆者





卒業する時には
写真館で撮った
「ポートレイト」を
友達と交換していた。
アルバムには、
個性が現れるポーズで
自分を演出した
お洒落な写真が沢山。
今回使用した
昭和24年〜25年当時の写真は、
高2回・土屋欣司さんから
お借りしました。








 












右側の女性は、土屋さん。
当時の龍城祭で
仮装行列



















今年3/12
朋友七人



 私は太平洋戦争中、中一の夏休みに横浜三中からの疎開組、
それも中国育ちで少々異色の生徒だった筈です。
制服など入手困難でしたのでカーキ色の襟のある軍服もどきの上下にゲートルを巻いて通学をしました。
沼津の狩野川河口の漁師町近くから、自転車・国鉄・駿豆線と乗り継いで韮中生の仲間入りをしました。大陸の黄砂の環境とはガラリ転換した、日本の澄んだ空気を呼吸した訳です。父母とも静岡に縁が有ったので沼津に居を定めたのです。
 中国東北部:旧満州の大連・奉天には3歳から13歳まで、一応外地暮らしをして育ちました。ですからこの10年間に私が吸収した身体の細胞は、その後の人間形成に大いに影響が有ったと考えます。

 そんな異邦人みたいな私を、韮山の同期の連中は受け入れてくれました。
 定期試験の時くらいしか勉強もせず、映画は毎週のように鑑賞し、FEN(極東ネット進駐軍放送)のJAZZばかり聴いていた私は、成績の優れるわけが有りません。
 プロ野球や都市対抗野球は満州でも観ることが出来ました。大連満鉄倶楽部などには戦後のプロ野球にも迎えられた選手もいました。
ですから全国中等学校野球大会は戦前戦後も郷土意識の強い人気ある球技でした。
 《昭和25年》 その頂点である甲子園に韮山高校が静岡県からセンバツ代表として出場、『逆転に逆転 決勝戦が一番楽勝』という快挙を実現したのです!
 少しトーンダウンしますが、我々高2回生はセンバツ優勝の一ヶ月前に卒業していたのです。優勝時の『東泉・鈴木のバッテリ』は一年後輩です。
 今年3月の会報で「野球部百十周年記念・招待試合アリ」と目にして直ぐ電話したのは、同期の佐野投手と酒巻外野手です。私は部活としては戦時中でしたので弓道部でした。ですから野球部主催の記念行事にウカウカと受付に立っても「どちら様で?」と言われるのがオチですから、佐野・酒巻の両看板の背後に居ればなにか関係者と錯覚されて席が確保されるであろうと、薄い下心が有ったようです。
 電話口に出た酒巻君はアッサリ
 「招待状も名札も送って貰ったけど欠席通知を書いて昨日投函
  したヨ、佐野も同じサ」 
 『Way?』と私。
 「あんまりその気はないんだ。佐野投手もそう言ってたけど。
 You 電話してみろよ」
私は直ぐピッチャーにダイアルしました。 
 「誰も知ってるメンバーがいないんだ」
 『そりゃ君が投げて勝ったのではないけど、同時期に投げたり打ったり
 した先輩だろ?監督もπ(パイ)ちゃんだし・・・』
その会話の終わりにピッチャーは
 「野球の試合はともかく、酒巻くんと出て来いヤ。
  泊まる所は何とか考えるから・・・会って話が聞きたいし。」
とのたもうた。

 韮高は其の頃バレー部がインタハイで全国制覇し、陸上短距離でも神宮の森で準優勝したことがありました。
 そのバレー部の雄に、萩原君と名乗る「クマ男」が存しました。
私が国鉄に間に合いそうにない時、沼津から静浦・口野切り通し経由で江間を自転車で急行中「待て!後ろに乗れ」とハンドルを掴み、ジャンプはしなかったが凄いパワーでペダルを踏んだのが「クマさん」でした。
彼(クマさん)に電話した佐野(ピッチャー)君が
 「東京からカホルと栗が来るから宿を探してくれ。
 土屋欣ちゃんなら引き受けて呉れる」とボールを投げた。これで5人。 次の日、私の所へ土屋永久幹事からTEL call 
 「来るんだって?何処に泊まるつもりだ?」
 『佐野ピッチャーと クマさんが何とかしてくれるときいたけど?』
 「何とかするものか!俺にお鉢が回ってきたワ」 そこで
 『今年の同期会の宿は決まった?』 と私。
 「まだだ。 ウン  こりゃ一案だ。 OK まかせろ」
この案に、伊東の魚市主任と、沼津の丸三書店の番頭も乗って一夜にしてメンバー確定。

 朋友(ぽんゆう)という中国語は 同門の友人の意で、そのまま日本語として通用している。
私には小学生時代から 学友と同意語でした。

 疎開政策で転校してきた混血のような私は、伊豆学校の諸兄には色々な事を教わりました。はたんきょう(スモモの一種)や、まくわ瓜の失敬の方法、つつじの花や桑の実の食べ方、石垣の隙間にいる小海老の捕り方、カンニングのタイミングや、教師の油断やビンタの癖、・・・先輩や兄貴から伝授された秘法だったのです。
 男子校だったので、宿題や教科書の忘れ物をしても始業のベルが鳴っている時、隣の教室に飛び込んで「〇〇〇を頼む!」と叫べば2・3冊が飛んで来ました。
女子高には無かった現象でしょう。

 主戦投手だった佐野君はこの時代でも別格でした。
バレー部の雄萩原クマさんも目立つ存在でしたが、左手に箸を持って早や弁を食し、教室の中でも爪先立ってバレリーナのように歩行していました。どちらも、より高度な能力を育てる努力でした。
迷い込んだような私などは、直接話しかけるのも遠慮勝ちでしたヨ。
 社会人になってからは皆それぞれに頭角を現し、今一人ひとりにインタヴューを申し込みたい願望を持っています。

2006年3月12日(野球部イベント当日ですぞ!)
 土屋永久幹事が手際よく用意してくれた長岡のHOTELに行く前に、江間の萩原家屋敷に集まりました。クマ牧場ならぬ「江間いちご農園」のキャプテンのホームグランドです。
朝から「乾杯木戸御免」を大奥方より拝領した殿様はご機嫌でした。獅子浜の漁師直送の珍味などなど網元もかくやと思う勝手所の賑やかさ!日曜でも苺狩りはオープンしているので、奥方以下農園のスタッフは総出で接客です。殿は公認のクラスメートの集まりでグラスの中身を満たし、肴の追加に指図が飛びます。
 かくて母校グランドでの試合(見物)は 逆転、ビールの掛け合いの方が先行する展開と変わりました。
 チェックインの時間も過ぎたので3台の車に分乗、HOTELに席を移しました。部屋に案内されて此処でも朋友の消息、お互いの体調、近況の交換など種は尽きません。
 今回の集いの切っ掛けが野球部でしたから、酒巻君がユニフォーム姿のスナップや、卒業時に交換し合った制服の級友のポートレイトを持参、若いクラスメートの顔にまたエピソードが加えられました。何人かは既に鬼籍に入り、葬式の話題から「当日用の写真を撮って呉れ」と依頼も受けました。

 幸い私は転校が多かったお陰で 数校の同窓会員となり、今となっては数奇な運命の方々と知己を受け、その道程を振り返っています。東京近郊にはやはり韮山の卒業生も多く、複数の小グループが季毎に集まっては博物・美術・国際的?話題を愉しんでいます。
 同じ校舎、教室、個人宅等で或る期間過ごしたのに、意外にお互いを知らないと感じるときが多いようです。
これから減ってくる機会・タイミング・余命を大事に、一期一会を意識しましょう。
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