あれからもう半世紀近くも経ってしまったのか・・・。
卒業式の日、新しい体育館の屋上で、富士山を眺めながら友達と別れを惜しんだでき ごとが、つい昨日の様に思えてならない。
「今、この体育館を取り壊し、新たに講堂を建てるということ。でもその前段階として 遺跡調査をすることになった。」という発掘作業依頼が来たのは、5月半ば過ぎだっ た。私は早速同級生や後輩を誘い、参加することにした。  
 久しぶりの母校は、木造校舎が鉄筋校舎に変わり、昔の面影はなくなっていた。女子生徒が増えたのにも驚かされた。  
 当の発掘現場といえば、あちらこちらから水が湧き出しており、しかも地質は粘土質。一日の日課は水汲みから始まる。泥田の様な土に足を取られ、長靴が抜けない。 水抜の後は、地面を乾かして削り、精査するといった具合。 それでも土器のかけらや、戦国時代のお椀etc.数多くの遺物が出土して毎日が非常に 楽しかった。  
 河野校長や恩師山口先生との談笑、先輩・同級生との久しぶりの再会etc. わずか半年間ではあったが、思い出に残る貴重な体験が出来たと思っている。


韮山城跡埋蔵物発掘調査に参加して
                                             杉山 勝(高9回卒)
 友人に誘われて埋蔵物発掘調査人に採用されて2年目、裾野市の葛山第2東名工事に伴う調査に参加している時、前述の友人に「韮高の講堂建替えに伴う発掘調査があるが 参加しないか?」と誘いがあり、少しでも母校の役に立てば と参加を了承し、今年の6月11日から参加した。  
 卒業して以来の母校であるのか、初日から学校に入る道に迷った。 校舎は全て昔の面影は無く、関係の無い学校に来たような感じだったが、坦庵公の胸像を見て 約40年前の校舎がフラッシュバックしてきた。  
 発掘調査は予想以上にきつかった。1つには汲んでも汲んでも湧いてくる水、2つ は粘土質の水を含んだ重く粘りっこい土、3つが周りを高い矢板で組んだ塀に囲まれ た蒸し暑さだった。 だが参加して良かったと感じたのは、発掘調査を委託された会社の指導員、韮山町の教育委員会のスタッフ、シルバー人材、調査員の仲間に励まされて 最後まで真っ当出 来たことと、色々な遺物が発掘され、当時は感じなかった歴史の有る場所で学んだと 思う感激が改めて湧いたこと。しかし それ以上に感激したのは、現地説明会に我々が 発掘した遺物、遺構を見に約2百名の人が来てくれて熱心に説明を聞き、見学をしてくれたことである。  
 最後に、歴史が有り由緒有る地で学んだことの誇りを改めて感じたが、女子生徒が増え もう昔のバンカラは影を潜めたようだが、校内の整理整頓は昔より悪くなったようだ。
校風は変わっても、清潔で風通しの良い誇りの持てる学校で有って欲しいと、在校生に望む。
                                                      以上  

発掘現場に立って 
                                            上田 昇(高11回卒)
 昭和34年に卒業以来、初めて韮高の門をくぐりました。発掘の現場は 元講堂の跡地です。
当時、新築されたばかりのその講堂で私達の入学式が執り行われました。校舎は木造 2階建てで、今はその面影は全くありません。高3の秋には、あの狩野川台風が襲来 し、一夜のうちに田方平野を泥の海と貸しました。翌日から在校生は学校へ集合し、自衛隊のトラックの荷台に乗り分散して被害の大きかった地域へ連日作業に出かけま した。今、スコップを手に持ち発掘の現場に立っていると、昔の事が思い起こされます。  
 江戸時代の地層の下に戦国時代のがあり、更に弥生の頃の層があるとの説明を受けました。後世になってまた発掘した折、田方平野のどこかで1958年、狩野川台風 の痕跡や遺物など又、将来起こるであろう大きな事件の堆積物など発見されるかもしれません。  
 私は、初めて発掘の仕事に参加させてもらいましたが、出土する小さな遺物一つに しても当時の生活を想像したり、又それらが発見されるのを待っているような長い沈 黙の期間を考えるだけでも、限りないロマンを感じた次第です。

         
 11月13日(土)、「韮高講堂跡地の発掘現場の一般公開があるから写真を撮って来てもらえませんか?」というHP委員のどらえもんサンからの電話に、出先から直行した私は、あろうことか携帯で激写(笑)。それを見かねた調査団の望月先生が写真を提供して下さり、また発掘にご協力頂いていた先輩方から 感想を頂くことがことが出来ました。お忙しい中、ありがとうございました。
遺跡発掘 半年間の思い出
三島龍城会 中村正則(高9回卒)
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