7月15日号
第1話、2話ともに とても切なく 感動的に、時にはクスっと 笑ってしまいながら
楽しませて頂いておりますが、「世界の中心で、愛をさけぶ」は、プロデュサーとしては何作目ですか?
また、過去に携わられた代表的な作品を教えて下さい
プロデューサーとしては3作品目になります。 1997年にTBSに入社。
1年目は バラエティ「しあわせ家族計画」に配属されチーフADをつとめ
2年目に ドラマ部に異動。数々のドラマをAD(アシストントテ゛ィレクター)として経験。
5年目の7月 何故か、またもやバラエティに異動。
「学校へ行こう!」「キャイーン&ユースケの炎の恋愛バトル」などで ディレクターとして過ごす。
ちなみに有名ではないかもしれませんが、「学校へ行こう!」当時担当していたコーナーは
「みのりかわ乙女団」「汚ギャル」「猿の学生」などです。
このディレクター経験が実は、ドラマを作る上でもプラスになっています。
その後、願いが叶い6年目の夏にドラマ部へ戻り
「GOOD LUCK!!」でアシスタントフ゜ロテ゛ューサーを経験した後
7年目の2003年7月 企画金曜ドラマ「STAND UP!!」でプロデューサーデビューし、
2004年1月 企画木曜10時 「ドールハウス」
2004年7月 企画金曜ドラマ 「世界の中心で、愛をさけぶ」 にいたる と、いった感じです。
どれも話題作ばかりですね。
では、この作品(通称「セカチュウ」)のプロデュースをされることになったいきさつは?
企画と言うものはプロデューサーが立ち上げ(考え)、 編成という部と話し合い、枠と予算を考え決定に至ります。
ということで、今年の1月に新しい企画の話をTBS編成部のドラマ総括の那須田と話し合っていた時に、ポロっと私がセカチュウみたいな感じのドラマといったところ
、TBSが版権もってるという話になり 、どうやったら全11話で話が作れるか考えてみてくれみたいな感じで話が進行していきました。
正直言うと、お恥ずかしい話ですが、当初は映画化されることは知らなかったんですよ。TBS事業局が東宝さん小学館さんとやっていたことで、制作局の私には、まだ聞こえてきていなかったんです。
その後、那須田にこの企画で夏は勝負させてくれと言い 、企画が上手く通ったという形です。
テレビ版は、韮高をモチーフにした「石丸ストーリー」と称されてますが、登場人物の中に 具体的なモデルはいらっしゃいますか?
大木龍之介のあだ名を「スケちゃん」と呼ばせているんですが、「スケちゃん」と言うニックネームは、 私の大学時代の親友からとっています。イメージで
高校時代自分が、どんな事で悩み、どんな事を考え、どういう行動をとっていたか、その辺をひじょうに大事にして台本は作っています。
学校の帰り道、誰もがちょっとは経験してるであろう。いつも寄っていく店とかそういう自分が経験してきたこと、自分がやりたくてもできなかった恋愛を書いています。
友達同士の会話は、結構言ってたことですかね。 原真嗣くんと小池政就くんとかと。
番組感想BBSに、同級生の方が「高校時代の石丸君たちに似ている」と書き込んありましたね。
女子の制服がセーラー服なのは、北高への憧れですか?そういう時代背景なんだとは思いますが(笑)やっぱり意識してます?
意識はしています(笑) 北高の文化祭に毎年、小池君、原君と行っていたくちですから。
原作を読んで、サク役は山田孝之サンしか思い浮かばなかったそうですが、オーディションで綾瀬はるかサンを選んだ『決め手』は?
はるかちゃんを選んだ決め手は、彼女がオーディションの部屋に入ってきて セリフを読んでもらったんですが
、723人の応募の中で一番震えていて、声が出ない感じだったんですね。廣瀬亜紀という役を本当に、やりたいと言う情熱を感じ、
キャスティングしました。
まぁオーディションの部屋に 入って瞬間に決めたみたいな感じはしましたけど・・・
ドラマにも出て来る「たこ焼きパパさん」(韮山駅までのメインストリート沿い 伊賀ショッピング店先にあるお店)の思い出は?
毎日行ってた覚えがあります。伊東市の宇佐美というところから通っていたので、朝が早すぎてお弁当も作ってもらえず昼ご飯もお世話になってました。当時 ツケが通用したんですよね。昼も学校を抜け出して行ったり、授業をさぼっては行ったり、好きな子ができれば相談しに行ったり
、部活が終わってからも、スイミングに通っていたので、その間に夕飯みたいな感じで、たこ焼きを食べてましたね。
もう亡くなってしまいましたがパパさんには、学校で教えてもらえない、人としてのなんたるかみたいなことを教えてもらった気がしています。
第一話の放送後、たこ焼きパパさんのママさんと電話で話して、昔の僕達とテレビにでている3人組がオーバーラップして涙がでてきたと言われた時は、ちょっと胸にくるものがありましたね。
高校時代に、亀山さんの講演を聞かれたそうですが、今の職業を選ぶ際に、その経験が何らかの影響を及ぼしていると 感じていますか?
また、プロデューサーとして・韮高の先輩として、 亀山さんを意識しているところはありますか?
高校1年生の時に講演会にいらっしゃったんですね。それまでは 何をしていいか、将来どういう風になっているのか
自分でも分からず、ただ水泳をしていただけの男だったんですが、講演会の時に亀山さんが
「僕の職業は、例えば中山美穂さんと柳葉敏郎さんのキスがみたいな〜と思ったら、それが実現できる仕事です」とおっしゃったんですね。
その言葉を聞いた時に、見えてなかった未来が見えたと言うか、道が見えたと言うか、そういう風に思ったことを強烈に覚えています。
もともとドラマが大好きだったので、そこからは思い込みで、俺はドラマのプロデューサーになると
自分に言い聞かせ、現在まできた感じです。もちろん亀山さんの全作品を見ています。
一回だけ私が「真夏のメリークリスマス」と言う番組のADをやっている時、打上げの時に流すNG集を作っていて、普通にNGだけつないでいったら、つまらないなと、多分、他局の編成部長(当時)がいきなり画面に現れたら盛り上がるかなと思い、怖いもの知らずで直接電話をさせていただき
お話をさせてもらったら、亀山さんがひじょうに面白がってくれて「すぐお台場来いよ」と言ってくれ、お会いさせていただきました。
その時に、人生の恩人ですという言い方をしたのを覚えています。 (亀山さんは何のことやら、分からなかったと思いますが・・)
最近ではフジTVのドラマの人たちの間でも結構知られているネタですね。
なぜフジテレビではなく、TBSに入られたのですか?
もちろん亀山さんがいらっしゃるフジテレビジョンが第一志望でした。 ドラマを作るのだったら、フジかTBSしかないと
思っていたので、テレビ局はその2社しか受けていません。(倍率が高いことも、難関だと言うことも全然分からず)結局は、フジは落ちたという事です。
就職活動として6社受けて、フジだけ落ちました《笑》ちょっと自慢が入りましたが・・・
最近、フジの方とかとお会いする場が多くなり、お酒とかも飲みに行ったりするんですが
、フジの人にはコンプレックスがありますね(笑)負けたくないと!!
ところで、高校時代は何部に所属してましたか? また、そこでどんな思い出がありますか?
水泳部でした。小学1年から水泳をやっていて、小学校・中学校と全国大会で優勝したりしていたもんですから、普通に水泳部に入りました。
高校3年生の全国高校総体(宮崎)の時に、高校ランキング3位で望んだんですが
、台風で順延になり、あろうことか予選があって決勝ではなく、一発決勝になってしまったことですね。思い出は・・。
低血圧なものですから、午前中は弱くて ヘロヘロで7位だったことは、今だから笑える話です。
しかも順延になった事から、飛行機で帰る日が200Mの日になってしまい、昼位に飛行機が出発だったので
、前の日の夜、当時顧問の名古屋先生から
「相談があるんだけど、明日出るのやめてくれない?」と言われた時は、倒れましたね。
結局出て、水着のままタクシーに乗り込んで 空港まで行きましたが。
そのままドラマになるような思い出ですね。種目は背泳ぎですよね。すごい選手がいるらしいというのは、卒業生の耳にも入ってきていました。でも、ものすごく韮高らしいエピソードだなと思いました(笑)
その韮高で学んだことで、今生きていることはありますか?
発想の自由。広がりですかね。
校風と言うか、学校のムードがのびのびとしていたので 、色々なイマジネーションを感じる術を学んだような気がしています。
在学中は、校舎の建替えの為プレハブ校舎で1年間過ごされたそうですね? 番組内で「校舎が取り壊されることになりました。最後に見に来ませんか?」という
谷田部先生のハガキには、そんな思い出が反映されているですか?
その通りです。
では、もう少しドラマの話を伺います。とても印象的なあの紫陽花の丘は実在するのですか?
実在しません。 「セカチュウ」のH.Pにもリポートで載せていますが、 実際は美術さんが作ってくれました。原作の印象的なシーンをモチーフに作りました。
松崎をロケ地に選んだ理由は?
3月位に監督の堤さんと連続ドラマをやるにあたっての打ち合わせをしていた時、メインの町はどこにしましょう?と言う話の中で、偶然ですが二人とも同時位に「西伊豆の辺ですかね〜」と言い、その後、堤さんが西伊豆を散策しに行ったら、「すごい町がありました」と言う事で松崎になりました。企画書の段階では、僕が昔通っていた韮山高校の辺を題材に書いていたので、制作部(ロケ場所を探す部門)も、実際韮山には何回も足を運び空気感が同じ所を大切にしていました。
HPの日記に、「このドラマが始まってから高校時代の友達から連絡がくるようになってうれしい」という風に書いていますが、 卒業してから同期会なんか開いたりしてますか?
一回も同期会という言葉も、誘いも聞いたことがないですね。 人間関係が もしかして薄かったのかもしれません(笑)
きっと今回番組がきっかけとなって、集まろうという話が出てくるかもしれませんね。
では、大学時代の水泳部でのご活躍もお話下さいますか?
今年はオリンピックYEAR、思いはありますか?
大学の頃は、大学1年生2年生と大学選手権の決勝に残り 何とか頑張ってましたよ(笑)
大学1年生の時、中央大学の単独チームで、200Mメドレーリレー(ちなみに第1泳者)の日本記録を出しました。日本記録樹立賞の立派な盾をもらえたんですが 、汚い寮に置いておくのが勿体無いと思い、実家に持って帰ろうとしたところ
、横浜線の網棚に忘れると言うハプニングもありました。戻ってはきましたけど・・・。
オリンピックには大学の頃 一緒に泳いでいた妹みたいな存在の「田中雅美」が3回目のオリンピックにでるので
、是非、頑張って欲しいと思っています。この7月企画をやっていなかったら、オリンピックのプロジェクトチームに入るつもりだったので、ちょっと残念です。
自分が青春の全てをかけて、あこがれていた場所に選手としてはたてないですが、いつか関わってみたいです。
最後に、同窓生、在校生へのメッセージをお願いします。
今現在も何もない男ですが、高校の頃は、本当に頭も悪く、赤点もあり、どちらかと言うと誉められないタイプの高校生でした。
でも、「夢は見るものではなく、実現するもの」と信じて、ここまでやってきています。
皆さんの記憶に残るものを作る為に これからも頑張っていきます。
僕は高校1年生の時にあった亀山千広さんの講演会がなかったら、今何をしていたか分かりません。
だからこそ、一つ一つの出来事を大事にするようにしています。
亀山先輩と石丸さんの出会いは、一同窓生として胸を打つものがありました。
では、第3話以降も 楽しみ観させて頂きます。
石丸彰彦氏関連のページは、これ以外に4ページあります
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