どうぞごひいきに

其の壱 

其の弐

其の参


瀧川鯉之助公式HP


落語の祖。
左から鹿野武左衛門(江戸)、露の五郎兵衛(京)、米沢彦八(大坂)
座敷噺と辻噺の様子がよくわかる。


 ところで、東京では前座・二ツ目・真打という身分制度がありますが、上方にはありません。そのかわり年季修行というのがありまして、これが東京の前座修行にあたります。東京では真打だけが“師匠”と呼ばれますが、上方ではどうなるのか?業界内では弟子を取った人とその同期格以上が師匠と呼ばれます。一般人が呼ぶのはだいたいでいいようです。よくわからないけどたぶんそうです。

 噺は上方種、江戸・東京種とそれぞれありますが、江戸時代から現在まで東西の交流は深く、お互いに影響しあっています。有名なところでは上方の「時うどん」が東京では「時そば」に
 東京ならではの噺は「強情灸」「火事息子」「佃祭り」「目黒のさんま」など、上方ならではの噺は「天王寺詣り」「三十石」「蛸芝居」「鴻池の犬」など。東京・上方共通の噺は「子褒め」「つる」「天狗裁き」「初天神」「愛宕山」「らくだ」「粗忽の釘=宿替え」「釜泥=釜盗人(ぬすんど)」「宿屋の富=神津の富」「長屋の花見=貧乏花見」「お血脈(けちみゃく)(こつ)寄せ」…あげればきりがない。上方種が多く、中には初出不明や中国種(「饅頭恐い」など)、欧州種(「試し酒」「死神」など)もあります。最近でも東京種の「芝浜」や「火焔太鼓」が上方で演じられたりと、交流は絶えません。
 同じ噺でも人物の気性や土地の風俗などが違うので、場合によってはまったく違った印象になったり、構成自体が変わったりします。
 ちなみに昨今話題の「ちりとてちん」は東京の「酢豆腐」が大胆な上方アレンジで「ちりとてちん」になり、それがまた東京にも逆輸入されています。
 メインキャストは江戸では八五郎と熊五郎、上方では喜六と清八
 東京と上方、それぞれの持ち味を楽しんでいただければと思います。

 てなわけで皆様、関東べいのへげたれも贅六もよろしくお引き立ての程を。

※註  
*「喜六・清八」…朝ドラ“ちりとてちん”の喜代美(B子)・清海(A子)の名前はこれが元ネタ。
*「関東べいのへげたれ」…関西人が関東人を蔑んだ呼び名。
*「贅六(ぜいろく)」…関東人が関西人を蔑んだ呼び名。
                                                     2008/5/10韮高メルマガ掲載


大阪の寄席・天満天神繁昌亭
 ‘06年には戦後初の落語の定打(じょうう)ち小屋「天満天神繁昌亭」を開業、‘07年度後半期のNHK連続テレビ小説「ちりとてちん」で上方落語が取り上げられ、上方落語は只今追い風吹きまくりです。
 最近営業に行きますと見台がわりの台が用意されていて、テレビの影響力の強さをひしひしと感じます。

あっしは江戸っ子(伊豆生まれ)ですから座布団一枚ありゃあいいんすよ!
たのみますよ、本当(ンとう)に!


 ところで上方落語、テレビで見た方も多いと思いますが、前においてあるテーブルのようなアレは何?と思うでしょ。あの台は“見台(けんだい)”といいまして、実は正面から見るとこんな┳┳です。これだけだと膝が丸見えなのでその前に横長の衝立を置きます。これが“膝隠し(ひざかくし)”。このふたつがアレの正体です。ちなみに笑点の司会者が使っているのは講釈で使う“釈台”で、膝が隠れる構造の一体型なのでお間違えなく。
 噺の場面転換に左手で「チョン」と叩くのが“小拍子(こびょうし)”。ちゃんと小さい拍子木の形をしてますが二つ一緒に左手で握って見台を叩きます。
 この三つが上方落語のみで使う道具です。また、この三つを使わずに演じる場合もあります。


繁昌亭の高座から寄席を眺める。
見台の左上に乗っているのが小拍子。  
    photo by 繁昌亭の絵葉書より
初代桂春團治(1879-1934)。酒も煽るし女も泣かすド阿呆はこの人。ラジオ出演やレコードで大ブレイクし、数々の奇行で 後家殺し・スカタン・ヤタケタ(無謀・無分別)などの異名をとった。


♪芸の〜ためなら〜女房も泣かす〜
 それが〜どうした〜文句があるか〜

…今やったら訴えられますね。
というわけで今回は東京落語と上方落語についてです。
何が違うかって、とにかく言葉が違います。
「何ォいってやんでえ」、「何をいうとんのや」てな感じでごわす。
んだども、それだけじゃにゃーでよー。(どこの人間だっ!)
鯉之助の・・・通になれる?気まぐれ落語講座 
其の四

東京落語と上方落語 の巻 

 そもそもは成り立ちがちがいまして、江戸は文化人のサロン的な座敷噺から上方は大道芸的な辻噺から発展しました。だから東京落語はハナから座布団一枚です。実は出囃子も昭和初期に上方から輸入されるまで使われていませんでした。
 扇子と小拍子を両手でカチャカチャ叩きながら話したりもします。また、“はめもの” といいまして、噺の中に三味線や太鼓などの鳴り物が入る噺もかなり多いです。こんなところに辻噺の名残があります。
 ちなみにそんな都合上から?噺家とお囃子さんの結婚率は東京より上方のほうが高いです。

 ところが落語はもともと都市の文化、不思議と同じように発展してきました。それぞれの祖とされる人物が江戸・京・大阪の三都に現れたのが元禄の頃、職業落語家として現在につながる門派が出始めたのが文化文政の頃、明治期には東京では三遊派と柳派上方では桂派と三友派に分かれ、大正から昭和初期にはそれが分派乱立しました。
 しかしその後東京では寄席で落語が大事にされたのに比べ、大阪では興行師が力を持ち現代風で陽気な漫才や珍芸がメインとなり落語は寄席から排除されていきました。戦時中の落語界は東西ともに暗い時代を過ごし、終戦後の上方落語は、師匠連の相次ぐ死や後継者不足、戦災による寄席の消失等で壊滅寸前にまでなりました。
 そこでばらばらだった門派が結託し昭和32年に上方落語協会を設立、後に上方落語四天王と呼ばれる六代目笑福亭松鶴、三代目桂米朝、五代目桂文枝、三代目桂春團治らを中心とした精力的な活動の結果勢いを盛り返し、新興の寄席出演やホール落語会、地道な地域寄席等を続けながら大名跡が復活、人気タレントや爆笑王も出現し現在に至ります。